第31話 この身投げ出しても(クアン視点)

「殿下っ!!」

 

 背に一筋の痛みが走る。虎に切り掛かろうとしたユンの刃が、間に入ったクアンの背中を掠めたのだ。

 

 飛び掛かった虎はというと、狙った従者ではなく突然横入りしたクアンを地面に押し倒すことになった。 

 

 喉元を噛みちぎられる覚悟をしていたが、飛び掛かった拍子に爪が腕に刺さっただけで、獰猛な獣はクアンに覆い被さったまま、ぴたりと動きを止めている。

 

 初めのうちは鋭い牙を剥き出しにして威嚇していたが、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと、虎の顔には獣らしくない戸惑いが浮かんで見えた。

 

 姿形は戻らぬが、虎になってもリィエンはクアンのことを認識してくれているのではないか。

 そう思ったクアンは、いつものようにリィエンを真っ直ぐ見つめ、ゆっくりと優しい声で語りかける。

 

「リィエン、頼む、話を聞いてほしい」

 

 迂闊だった。リィエンは虎の子であることをひた隠しにしていた。

 

 外に出る時は髪の色が目立たないようにしているのも、人付き合いを避けるようにして暮らしていたのも、全ては正体を知られないようにするためだろう。

 

 リィエンはずっと何かに怯えていた。

 秘密にしていることがあると教えてくれた時――恐らく虎の子であることを言おうとしてくれていたのだろうが、その時もリィエンは震えていた。

 

「君を傷つけるつもりはなかったんだ」

 

 ユンを説得するためとはいえ、リィエンが自ら正体を明かしてくれるその時まで、言及すべきではなかったのだ。

 

「もう悲しませるようなことはしたくないと思っていたが……愚かな私を赦してくれ」

 

 護衛たちは、獣を刺激せぬよう息を呑んで様子を見守る。

 ユンは大人しくしているが、獣に恐れをなしたというよりは、クアンを傷つけたことを悔いているに違いない。

 

「リィエン、過去に何があったか知らないが、私は裏切ったりなどしない。君が何者であれ、愛すると誓っただろう」

 

 クアンは虎を撫でようと手を伸ばす。

 腕と背中が酷く痛み、クアンは顔をしかめるが、リィエンの傷ついた心の痛みはこんなものではないはずだ。

 

 柔らかな毛に指を絡めると、虎はすっとクアンの上から退き、そのまま茂みの中へと姿を消してしまう。

 

「お待ちください! 殿下!!」

 

 従者たちの制止を無視してクアンは獣を追いかけた。

 茂みを抜け、しばらく行った先には確か崖がある。数年前の大雨で土砂崩れが起き、危険だから近づくなと言われていた場所だ。

 

 ――もしや、身を投げるつもりか。

 

 そんなことはさせない。


 そんなことになるくらいなら、たとえ末代まで罵られることになったとしても、クアンは国も責務も捨て、リィエンとともに秘境で暮らすことを選ぶだろう。

 

 リィエンがもうクアンの顔も見たくないというのなら、ここから静かに引き揚げよう。

 

 自分の命と引き換えに、リィエンを助けられるのならそれでも良い。


 何でもする。だから、どうか。幸せに生きてほしい。

 

 血を流し、息を切らして向かった先にリィエンはいた。

 虎の姿のまま、崖を見下ろすようにして佇んでいる。

 

 クアンは刺激をしないよう、じりじり距離を詰めていく。

 

 これまでの人生で、これほどまでに緊張したことがあっただろうか。

 これほどまでに、誰かを失いたくないと思ったことがあっただろうか。

 

 あと数歩進めば触れられる距離に近づいた時、虎はふっとクアンの方を振り返り、それから崖を飛び降りた。

 

「リィエン……!」

 

 クアンも虎を追って、ほとんど同時に飛び降りる。手を伸ばしたところで助けられるわけがないのに、考えるより先に体が動いていた。

 

 暗闇の中を落ちていく。このまま死ぬのだろうかという考えが頭を過るが、次の瞬間、クアンの体はドボンという音とともに水に包まれていた。

 

 ――川……いや、池か。

 

 助かった。クアンは意外にも冷静に、ほぼ同時に着水したリィエンの体を抱いて水面に浮上する。


 虎のままであればそれも難しかっただろうが、落ちた時の衝撃のせいか、リィエンは人の姿に戻っていた。

 

 岸に上がったクアンは意識のないリィエンに水を吐かせ、冷たくなった裸の体を抱き締める。


 息はあり、心臓も動いている。眠っているだけのようだ。

 ほっとしたクアンはリィエンを抱え、帰り道を探して彷徨った。


 幸い、かつて使われていたのであろう坂道があり、そこから崖の上に戻ると、ユンが血相を変えてクアンを探しているようだ。

 

「布か、何か体を隠せるものを持ってきてくれ。リィエンを家まで運ぶ」

 

 びしょ濡れのクアンはユンに告げる。

 

「貴方の傷の処置が先です!」

 

 ユンは反発したが、クアンは譲らなかった。

 

「リィエンが先だ。分かるな、これは命令だ」

「……」

 

 ユンは不満そうに唇を噛む。


 自分にも、他人にも厳しい男だ。結婚相手が誰であれ、この側近は結局不満を言うのだろうが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。


 ――どうか、目を覚ましてくれ。


 クアンは自身の腕の中でくたりと横たわる、リィエンのことで頭がいっぱいだった。


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