第28話 晴れやかな気持ち
クアンの、優しい眼差しと甘い声が絶え間なく降り注ぐ中、逞しい腕に抱きしめられ、裸の心と身体を重ねる。
――人生で一番幸福を感じた時間かもしれない。
リィエンはふわふわした心地のまま、微動だにしたくないと寝台に貼り付いていた。
まだ外は昼だ。本当なら、川に仕掛けを確認しに行かなければならないが、今日はやめにしておこう。
「ぎゅいっ、ぎゅるるっ」
「……」
「ぎゅあっ、ぎゅうっ、ぎゅるるるるっ!!」
「…………」
小さな獣の不機嫌な鳴き声と、かさこそ動き回る音のせいで、リィエンは現実世界に引き戻される。
「ぎゅいっ、ぎゅいっ!!」
「ああ、もう煩いっ!!!!」
折角、夢見心地だったのに。
豆鹿を睨みつけたリィエンだが、そういえば朝ごはんをやり忘れていたことに気づく。
「あ。マイの朝ごはん、忘れてた……」
どうりで煩く鳴くわけだ。餌をやれば収まるだろうが、今はまだ動きたくない。
葛藤しているうちに、寝台の木枠がぎしりと軋む。
「私がやろう。仕掛けも見に行ってくる」
クアンはリィエンの髪をさらりと撫で、寝台を降りようとした。
「ありがとう、好き」
向けられた大きな背中に、リィエンは素直な気持ちを投げかける。
クアンのことだから、大袈裟に喜ぶだろうと思ったが、反応がない。
不思議に思って顔を上げると、彼は少し切なそうに笑っている。
「愛しているよ、リィエン」
そう言えることが嬉しいと、クアンは付け加えた。
◇
『おー、リィエン』
『トゥア。もう帰り?』
不在にしているであろう時間を狙って来たにも拘わらず、畑帰りのトゥアとばったり出くわしてしまった。
『思ったより豊作だったから、一旦担いで戻ってきたところだ。丁度良い、後で持ってけよ』
『うん、ありがとう』
――バレてないよな?
家を出る前も、散々クアンに抱き締められて甘ったるい時間を過ごしていた。
変に勘の鋭い幼馴染のことだから、クアンとの仲を見透かされないか心配になる。
リィエンはすんすん鼻を鳴らして自身の匂いを確かめた。
クアンの体臭が衣服に移っているようだが、これを認知できるのはリィエンと同等、もしくはそれ以上に鼻の良い獣だけのはずだ。
『オレもたくさん捕れたから、魚を持ってきた』
『ああ、ありがとな。晩飯にするよ。嫁に渡してやってくれ。ところで、あの寝台は問題ないか?』
『うん、ありがたく使わせてもらってる』
貰ったものの、結局二人で一つの寝台に寝ているので使っていない。リィエンは心苦しく思いながらも嘘をつく。
いや、物置としては使われているので、完全なる嘘ではない。
二人はしばらく黙って、のどかな山道を歩いた。
トゥアの家が放し飼いにしている雌鶏と雛が、元気に草むらを駆け回っている。
子どもの頃は他愛のない会話で盛り上がっていたのだろうが、大人になり、家庭を持った幼馴染と何を話して良いのか分からなくなってしまった。
『あの人の仲間、まだ見つかってないんだな』
クアンの話を振られてどきりとするリィエンだが、平静を装う。
『見捨てられてはいないと思うんだけど、まだ何も手掛かりが掴めていないんだよね』
『山でのたれ死んでなけりゃ良いけど、心配だな』
トゥアは家に着くと、担いでいた竹籠を地面にどっかり置き、しゃがみ込んで採れたて野菜の選別を始める。
リィエンは、炊事場にいる彼の嫁に魚を渡しに行き、帰り際、意を決して幼馴染の背中に語りかけた。
『オレ、カウカイを出ようと思うんだ』
トゥアは作業の手を止め、目を丸くしてリィエンを見つめる。
『マジ?』
『うん。移動手段に目処が立ったら、クアンと一緒にホアダイ王国へ行こうと思う』
行ってみて、どうにも肌に合わないと感じたら戻ってくるつもりだ、ということも付け加える。
トゥアは手を叩いて土を落としながら立ち上がった。
表情から驚きが消えた代わりに、嬉しそうに口元を綻ばせている。
『そうか。寂しくなるけど安心したよ。やっと伴侶を見つけたんだな』
『はっ、伴侶!?』
『そうじゃないのか? どっからどう見てもあの人、リィエンにベタ惚れだし』
リィエンの頬はかっと上気する。
関係性を悟られることを危惧していたが、この幼馴染にはとっくに見透かされていたというわけだ。
『……男同士で気持ち悪いとかないの?』
『二人が幸せだったらそれでいいと思う』
トゥアは平然と言ってのける。カウカイの人間は案外、同性同士の恋愛にも寛容なのだろうか。
とはいえ、誰にも言わぬよう幼馴染にはしっかり釘を刺しておく。
『リィエンさ、あの人が来てから変わったよ』
『そう?』
『前より幸せそうな顔をしてる』
――そうかな。そうなのかもしれない。
リィエンは腕に結んだ願い紐を指で弄る。物知りババに貰ったものだ。
クアンにこの紐を見せたところ、正式な贈り物ができるまで、これを婚約の証としたいと言われた。
まだ結婚するとは言っていないとリィエンは少しばかり抵抗したが、それが照れ隠しであることはクアンにはバレバレだ。
強引に紐を結ばれ、リィエンも仕方なく彼の腕に結び返したのだった。
『南国へ移動するには馬が必要だな。山の麓まで下りれば手に入るんじゃないか?』
『たぶんね。一度オレだけ下山して、話をつけてこようかな』
クアンを連れて山を下るより、リィエンが一人で行った方が早いだろう。
彼が許せばの話だが。
『村の女性陣に頼めば? よく麓まで織物を売りに行ってるし、口達者だから上手く交渉してくれると思う』
『その手があったか。頼んでみるよ』
なるほど、とリィエンは頷く。その様子をじっと見ていた幼馴染は息を漏らして笑う。
『本当に変わったな』
『駄目かな』
『今の方がずっと良い』
人を頼ることを頑なに避けてきたリィエンだったが、少しずつ気持ちに変化が生じている。
誰かに優しくしてもらったら、自分も誰かに優しくすれば良い。
そうして思いやりは循環していく。クアンが教えてくれたことだ。
リィエンは魚の代わりに、トゥアからもらった山盛りの野菜を背負って、帰路についた。
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