第17話 あざとい獣め
「あーーーーーっ!!」
夕飯の支度をしようとしたリィエンは、調理場に置いてあった壺がひっくり返っていることに気づく。
中の液体は地面に溢れており、使い物にならなくなってしまった。
「キュルルッ」
鶏のように小さな生き物が、呆然と佇むリィエンの足元を忙しなく駆け回っている。
「お前の仕業か〜! おい、今度やったら丸焼きにするからな!」
「ギュッァ!」
リィエンは両手で小鹿を掴んで抱き上げた。獣は逃れようと手の中でバタつく。
小さな体に似合わず力は強いようで、市場から連れ帰ってきてからというもの、暴れまわってはリィエンを怒らせている。
「大声を出してどうした?」
家の中から出てきたクアンに、騒ぎの元凶を差し出し、リィエンは彼にも怒りをぶつける。
「コイツが調味料を入れてる壺をひっくり返したんだ。中身全部ダメになった!」
「きゅいっ、きゅるるっ」
小鹿はリィエンの手の中で可愛らしく鳴く。先ほどまでとは声音が全然違う。
――コイツ、クアンに媚びやがって!!
リィエンは愛らしく振る舞う獣を睨み、ぎゅっと唇を噛みしめる。
クアンはというと、媚を売られていることに気づかず、苛立つリィエンを
「獣のすることだ、仕方ない」
「獣だからって甘やかすのは良くないと思う。きちんと躾けないと」
「怒られてもマイには何のことか分からないだろう」
「きゅうっ、きゅるっ!」
名前を呼ばれた生き物は、鼻にかかったような甘い声で鳴きながら、クアンを見つめる。
クアンはマイを譲り受けると、顔を綻ばせ、指の腹で優しく頭を撫でた。
――これじゃあ、オレが弱い者いじめをしてるみたいだ。
口内に鉄の味が広がる。市場から帰ってきてから、クアンはマイに夢中でリィエンのことなど眼中にない。
「料理の邪魔だから家の中でやってよ」
「何か手伝おうか」
「要らない、仕事が増える」
リィエンはそっぽを向き、調理場に籠もる。溢れた調味料をぼろ布で乱暴に拭い、そのまま炉の中に放り投げた。
苛立ったまま、雑に刻んだ野菜を調味料なしで煮込む。
味のしない煮物に、胡椒辛い干し肉を添えて夕食の完成だ。味が薄いと文句は言わせない。
食器を持って家に入ると、クアンは寝床に座り込んでいる。
「マイは?」
「眠っている。可愛いだろう」
「ふぅん」
視界に入らなかったが、獣は小さく丸まり、寝床の藁の中に潜り込んでいた。
見た目は小さく、愛らしいかもしれないが、行動は全くもって可愛くない。
獣が人の寝床で寝るなと言いたくなるが、半獣の自分にも返ってくる言葉なので、口をつぐむ。
虎の姿のリィエンを見ても、この男は同じように優しく接してくれるだろうか。可愛いと言って、頭を撫でてくれるのだろうか。
ないな、とリィエンは思う。
優しい男のことだから、表に出さぬよう努めるかもしれないが、きっと恐怖を感じるか、不気味だと感じるかのどちらかだ。
期待してはいけない。
リィエンは味のしない煮物に口をつける。
彼がこの家に滞在するようになって以来、リィエンが先に半分食べ、残り半分をクアンに食べさせる習慣が続いていた。
「調味料がなくなったせいで今日は味がしないからね」
嫌味のように理由を強調し、芋を乗せた匙をクアンの口もとに差し出す。
いつもは恥ずかしげもなく食事を与えられるクアンだが、今日は珍しく目を伏せ、しばらく静止した。
獣の素行を許容しておきながら、味のしない食事は不満だとでも言うのか。腹立たしい。
「食べないの?」
「いや、食べる。腕の痛みも引いたことだし、これからは自分で食べようと思う」
「ああ、そう」
すっと冷たいものが、リィエンの喉元から胸へと伝って下りていく。
リィエンは匙を器に戻して立ち上がった。
「リィエン?」
「好きにすれば。不味くて食べられないならマイにあげて。お腹が空いてたらどうせ何でも食べるから」
「先ほどから何をそんなに苛立っている。どこか悪いのか?」
「煩い! 放っておいてよ。どうせオレの気持ちなんてクアンには分からない」
この気持ちが何なのか、リィエンにすら分からない。
――オレは、クアンの世話を続けたかったのか? そんなわけないだろ。
本当なら、大きな子どもの世話をする手間が減ったと喜ぶべきところなのに、リィエンの胸の内では、怒りや焦りにも似た、よく分からない感情が渦巻いている。
「リィエン……」
「片付けしてくる」
何か言いたげなクアンを無視して、リィエンは調理場に戻る。
作業のために置いてある小さな椅子に腰を下ろすと、深く息を吐き出した。
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