第三章
第14話 市場へ
『コンおじさーん! 先行ってて!』
リィエンは遥か先を歩く、小柄な男に向かって叫ぶ。
コンおじさん――トゥアの父は、後ろを振り返らずに、自分のペースでどんどん進んでしまうので、時々呼び止めなければならなかった。
『道分かるかー?』
『このまま道なりに進めばいいんだよね?』
『ああ、そうだ。しばらくすると分岐点があるから、そこを左だ』
『分かった! また後でー!』
リィエンが手を振ると、トゥアの父は再び歩き出した。
野菜の入った大きな荷物を背負っているというのに、彼は軽い足取りで山道を進んでいく。
日が昇り始め、辺りはすっかり明るくなっている。
いつもなら、既に市場で店を開いている時間なので、先を急いでいるのだろう。
「はぁ、疲れた。なんであの歳であんなに元気なんだろね」
「話に聞いてはいたが、この地の人々の逞しさには驚いたよ」
同行しているクアンの顔からは、いつもの余裕に満ち溢れた表情が消え、虚ろで俯きがちだった。
リィエンの忠告を聞かず、市場への同行を決めたのはクアンなので、自業自得ではあるのだが。不平不満を軽々しく口にしないところは尊敬できる。
「ちょっと座って休憩しよ」
リィエンは道端の大きな岩に腰を下ろし、クアンにも座るよう促した。
竹筒に入った水と、米と鶏肉を葉にくるんで茹でたものを彼に渡す。これは華国の料理だが、こうして持ち運ぶには便利だ。
「馬があるといいんだけどね。カウカイの人、移動はほとんど徒歩だから。はぁ、疲れたー」
正直、山暮らしが長いリィエンだけなら、トゥアの父についていくこともできるが、無理をしがちなクアンの代わりに疲れたふりをした。
「リィエンは優しいな」
彼はそのことに気づいているのか、そっと頭を撫でてくれる。それがなんとも心地良くて、歳上の威厳など忘れてされるがままだ。
「あと一時間もしないうちに着くはず。歩けそう?」
「ああ。私のことなら大丈夫だ」
こちらを見つめる優しげな緑と目が合い、リィエンは照れ臭くて俯いた。
そしてふと、クアンの足首に真新しい傷があることに気づく。
血は凝固しきっておらず、まだ綺麗な赤色をしている。道中、枝か何かに引っかけたのだろう。
「怪我してる」
「このくらい、大したことはない」
「見せて」
リィエンは地面に下りて傷口を観察する。
深い傷ではなさそうだ。
これなら舐めておけばすぐに治ると、クアンの足を持ち上げ、傷口に舌を這わせる。
「リィエン!?」
クアンはびくりと体を震わせ、足を引っ込めた。
リィエンは、唾液がしみたのかもしれないと思って首を傾げる。
「そんなに痛かった?」
「違う。一体何をしている、汚いだろう」
「だってこの場所、自分で舐めるのは難しいでしょ」
「……この地では傷を舐めるのが普通なのか?」
クアンはしばらく黙り込んでから、眉間に皺を寄せて尋ねる。
「このくらいの傷なら、舐めて消毒するのが普通だと思うけど?」
自分で届かない場所は家族が傷を舐めてやる――というのが、少なくともリィエンの家では普通だった。
クアンがひどく取り乱すのでリィエンは驚いたが、彼も同じように風習の違いに驚いたのだろう。
「この地の習わしを否定するつもりはないが、他人の血液を口に含むのは危険だと聞く。これからは気をつけた方が良い」
他人と呼ばれる間柄の人間を、舐めることは流石にない。
しかし、反論する理由も見つからなかったので、大人しく頷いておく。
「そろそろ出発しよう」
足を舐められたことが余程不快だったのか、クアンはそう言って立ち上がると、不自然なほど足早に歩き始める。
――良かれと思ってしたのに。
何が駄目で何が良いのか、クアンの基準が全然分からない。
リィエンは、彼のよそよそしい態度に少しの不満を抱きながら、市場まで残り僅かとなった道へと踏み出した。
◇
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