第12話 揺れる気持ち

「見えてないよね?」


 先に洗い終え、樽に張られた湯に浸かっている男にリィエンは尋ねる。


「大丈夫だ」

「良いって言うまで目を瞑っててよ」


 閉じられたクアンの瞼の前で手を振り、反応がないことを確かめてから、リィエンは体を隠していた布を外す。


 彼の上に重なる形で湯に浸かると、樽からお湯が溢れ出た。


「やっぱり狭い」

「本当だな」


 底は深いが、樽の幅は広くないので、自然と密着することになり、背にクアンの体が触れている。


 昔はこの場所で、幼い弟たちを風呂に入れてやったものだ。

 少しだけ子どもの頃に戻ったような気持ちになった。


「もう目を開けていいか?」

「いいけど、俺のことはできる限り視界に入れないで」

「善処する」


 リィエンは迂闊に後ろを振り向けないので、クアンが本当に見ないようにしてくれているかは分からない。

 見ていたとしても、背中くらいなら許そう。


「薬湯に浸かるのは初めてだが、良いものだな。体に染み入る感覚がある」

「オレにとってはこれが普通だけど、温まると健康になった気がするよね」

「ああ。是非とも国へ持ち帰りたい」


 葉を煮出した液体は、黒みがかった紫のような、焦げ茶のような、不思議な色をしている。

 独特の匂いは鼻につくが、体に良いものの匂いだと認識してしまえばなんてことない。


 リィエンは両手で濁った湯を救い、肩にかける。熱すぎず、ぬるすぎず、長湯に丁度良い湯加減だ。


「この前からトゥアの家に世話になりっぱなしだ。お礼、どうしようかな」


 多く捕れた魚を届けるだけでは足りない。かといって、リィエンが力仕事の役に立つとも思えない。炊事の手伝いも、お嫁さんの邪魔になるだけだろう。


 やはり、何も返せるものがない。


「彼らは返礼を求めているのか?」

「いや。助けられてばかりなのは、オレが嫌なだけ」


 腹に男の手が回され、体は更に密着した。

 すぐ耳元で、彼の吐息が聞こえる。


 湯で温まったせいか、緊張のせいか、リィエンの体内では、ドクドクと脈がうるさく響いている。


「立派な考えかもしれないが、リィエンはもう少し他人を頼るべきだ」

「クアンにオレの何が分かるの」

「分からないが、壁を作られている方は寂しいと感じるものだよ。周りにもっと甘えれば良い。私はリィエンに何か返せているか?」

「……ただの穀潰し」


 確かに、クアンは何をするわけでもなく、迎えを待つ傍ら、リィエンの家に滞在しているだけだ。

 食材調達から食事作り、掃除洗濯まで、全てリィエンが世話を焼いている。


「それでも助けてくれるのはなぜだ? 私に見返りを求めているのか?」

「そんなことは、ない」

「だろう。トゥアの家族も一緒だと思うよ」


 その言葉が、ぐさりと胸に突き刺さった。

 リィエンがクアンを助けたのは善意だ。恩を返してほしいとは思わない。


 もし彼が、差し伸べた手を拒んでいたら、リィエンはどう思っただろう。

 きっと、腹が立つし、悲しい。


 これまでトゥアや、彼の父親にそのような思いをさせてきたのかもしれない。

 迷惑をかけるべきでないと考えて、彼らの好意を蔑ろにしてきたのではないか。


 リィエンは至らない自分に嫌気が差し、湯に沈んでしまいたかった。


「優しさは循環するものだ。彼らがリィエンに与えた分、リィエンは私に与えてくれているよ」

「うん……」


 再び湯を掬い、顔にかけ、涙を誤魔化す。隠しきれていなかっただろうが、クアンはリィエンの濡れた髪をそっと撫でてくれる。


「しかし、穀潰しか……。私にできることは少ないが、甘えたい時はいつでも頼ってくれ」


 そう言ってクアンが苦笑する一方、リィエンは心のうちで、先ほどの言葉を訂正した。


 彼はリィエンにないものをたくさん持っていて、惜しみなく分け与えてくれている。

 それは目に見えない、リィエンがこれまで拒絶してきた何かだ。


 またもや、胸がぎゅっと締めつけられる。


 頼っても良いのだろうか。信じても良いのだろうか。


 少なくとも、この男は自分を裏切らないかもしれない。リィエンの心は揺れ動く。


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