第10話 回復

 体に異変が起きてから三日目の朝。靄がかったようだった頭の中はすっきりとし、体は生まれ変わったかのように軽やかだった。


 自身の腰を抱く男の腕から逃れようとして、リィエンは身をよじる。


「もう大丈夫だから、離して」

「治ったのか」

「うん」


 クアンが拘束を緩めた隙に、リィエンは寝床を脱出した。


 泣いてすがって慰めてもらっていた、昨日までの記憶はぼんやりと残っている。


 何をしたか、何をされたかもおよそ思い出せてしまうが、リィエンは覚えていないふりをして素気なく振舞った。


 一々思い出していたら、クアンとはとても顔を合わせられない。


「まだ無理をしない方が良い」

「平気だよ。これ以上寝ていたら体がおかしくなる」


 ――それに、この部屋を片付けないと……。


 食べかけの果実や、焼き魚の残骸、湯を沸かすのに使ったのであろう鍋が、狭い室内に散乱している。


 クアンが慣れないながらも懸命に看病してくれた痕跡なので、文句は言えない。

 しかし、調理場も同じようにひどい状態であることは、確認せずとも想像がつく。


 リィエンはひとまず、脱ぎ散らかされていた服を身にまとった。


 家の片付けの前に、まずは体を洗いたい。

 目に見えた汚れはクアンが拭ってくれたようだが、今の自分は汗臭いだろう。


「お風呂、入りに行こう。とりあえず服着て」


 裸体のまま堂々としている男に、リィエンは散らばっていた服を拾い集めて投げつける。


 風呂に入ろうと思うと、十分な湯を沸かせるだけの大きな鍋と、湯を張るための樽が必要だ。

 一人暮らしのリィエンの家にはないものなので、幼馴染の家まで行かなければならない。


 また他人を頼ることになってしまうが、どうしても、体に残る汗の余韻を流してしまいたかった。



『こんにちは』

『ああ、リィエン。トゥアなら今畑に出てるの。お義父さんを呼びましょうか』

『お願いします』


 炊事場で食器を洗っていたトゥアの嫁が、来客の存在に気づいて声をかけてくれた。


 トゥアの嫁は、はきはきものを言う力強い女性だ。

 彼女は義父を呼びに行くのではなく、洗い物をしながら家に向かって叫んだ。


『お義父さーん! リィエンが来てるわよー!』


 この様子だけでなんとなく、この家の力関係が分かる。


『おお、リィエン! よく来たな!』


 部屋でうたた寝をしていたらしいトゥアの父親は、あちこちにはねた髪を手で撫でつけながら表へと出てきた。


 相変わらず筋肉質で健康そうな人だが、しばらく見ないうちに顔の皺が増えていた。

 トゥアが立派な父親になった一方で、彼の父親はおじいさんになったのだ。


 当たり前と言えば当たり前だが、改めて知人の老いを突き付けられたリィエンは、戸惑ってしまう。


『コンおじさん久しぶり。この前は鹿肉ありがとう、美味しかった』


 お礼を伝えると、トゥアの父は顔をくしゃくしゃにさせて笑う。


『ヨウリンさんも鹿肉好きだったからな。喜ぶと思ったよ』


 ヨウリンというのは、リィエンの母親の名前だ。

 彼が母に好意を寄せていたというのは、きっと本当なのだろう。思い出すように名前を呼ぶ顔がどこか優しい。


 母と弟妹、トゥア一家と賑やかに暮らしていた頃の情景がリィエンの頭をよぎり、思いがけず寂寥の念に駆られた。


 人は歳をとる。老いれば死ぬし、そうでなくとも母のように突然病に倒れ、逝ってしまうこともある。


 親しい誰かと別れることは辛く、悲しいことだ。それなら最初から、一人でいた方が良い。


 リィエンは母の死からずっと、そうした観念に囚われている。


『元気にしていたか? 異国の兄ちゃんを助けたと聞いて顔を出そうとしたんだが、見物人にはうんざりしてるだろうとトゥアのやつに止められてな』


 トゥアの父は頭をぼりぼり掻きながら言う。


『最初の数日はすごかったけど、皆飽きたみたいでもう誰も来ないよ』


 リィエンは苦笑し、それから体調を崩して寝込んだことと、お風呂を貸してほしいと申し出る。


『そうか、それは大変だったな。すぐに風呂の準備をしよう』

『ありがとう』


 調子が悪い時は薬草風呂に入り、悪いものを洗い流すというのがこの地の風習だ。

 トゥアの父は快諾すると、家の中にいた末の息子を呼びつけて、風呂の準備に行かせた。 


 

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