第二章
第7話 甘い香り
重たい魚籠を担いで山を下ると、川へと入る獣道の手前でクアンが待ってくれていた。
山で行き倒れていた彼を助けてから、既に五日が経過している。
「おかえり、どうだった?」
「ん」
リィエンは魚の入った竹籠を彼に渡した。
渡さなかったら、彼は奪ってでも代わってくれようとするのだ。
最初の数日間は、怪我人に持たせるわけにはいかないと主張したが、左腕なら大丈夫と言って聞かないので諦めることにした。
そのくせ匙は持てないと言うのだから、おかしな話だ。
「今日もよく捕れたな」
「ほんと、何でだろう」
クアンが居候するようになってから、急に魚が罠にかかるようになった。
一匹、二匹ではない。今日は七匹も捕れ、中には長細い大物の魚、カワヤツメもいた。
まるでこの男が神か何かで、魚たちは自ら供物になりに来ているようである。
不可解だが、たくさん捕れるに越したことはない。調理方法によっては保管がきくし、余った分でトゥアの家に恩を返すこともできる。
リィエンが歩きながら、どう魚を調理するかに思いを馳せていると、クアンは呟いた。
「この地は美しく、平和だな」
彼につられ、リィエンも坂下に続く集落の様子を眺めた。
霧の立ち込めていることが多いカウカイだが、今日は遠くまではっきりと景色が見える。
段状に折り重なる田んぼはまだ土色だが、これから水が張られ、稲が植えられるだろう。
夏には青々と葉が茂り、稲穂が実る秋には辺り一面金色に染まって美しい。
「クアンの国はどうなの?」
「ホアダイも良いところだ。温暖で、美しい花々が年中咲く。大きな山はないが海が近いな。異国との交流が盛んで、独特の文化が形成されている。近年は戦もなく、平和だ」
「ふぅん」
見たこともない海の情景や、文化を思い描くことは難しい。リィエンが想像できるのはせいぜい、花が咲き乱れる様子くらいだ。
花に囲まれたクアンが偉そうに椅子に座り、薄緑の目を優しげに細め、リィエンの名を呼ぶ光景がふと脳裏をよぎる。
胸の奥をくすぐられたような心地になって、リィエンは慌てて想像を止めた。
――まずい。オレはこの男にどんどん気を許しているのでは!?
慣れとは恐ろしいもので、弟や妹にしていたようにクアンの世話を焼き、並んで食事をとり、一緒に眠ることが、いつの間にか当たり前になりつつある。
早く出ていけとリィエンは頻繁に言っているが、言い過ぎて逆に日常会話の一部のようになってしまっている。
「ホアダイを訪れることがあれば、盛大にもてなそう」
朗らかに話すクアンに向かって、リィエンはそっけない返事をした。
「訪れるつもりなんてない。そもそも迎えが来るの? 一生帰れないかもよ」
「そうだな。今頃必死になって探してくれていると思うが、なかなか来ないな」
仲間に見捨てられたのではないか、と脅したつもりだったが、クアンは呑気にしている。
大らかで穏やかなのは、南の人間の特性なのだろうか。
もし迎えが来なかったら、このまま居候させてくれと言い出しそうで困る。
「そもそも、何でわざわざこんな辺鄙なところに来たの。まさか、侵略前の偵察に来たわけじゃないよね」
「心配するな。私は単に探し物をしに来ただけだ。北西の山に向かえとのお告げに従ってな」
「ふぅん。遠路はるばる探しに来るようなものなんだ」
「……そうだな」
いつもは、頼んでもいないのに一から百まで語るクアンが、話を濁した。
聞けば答えてくれたかもしれないが、リィエンは黙って坂を下る。
これ以上、相手に踏み込むべきでない。相手にも踏み込ませるべきでない。そう冷静に言い聞かせる。
突然、幼い子どもたちが「きゃーっ」と歓声を上げながら駆けてきて、物珍しそうに異国人を囲んだ。
かつて弟が着ていた地味な紺の衣服を貸し与えているが、クアンの存在はどうも浮いて見える。
どれだけ身をやつしても隠し切れない、上流階級のオーラが彼にはあった。
地べたに敷いた
『どれ、大きな兄さんに分けてやろう』
『気遣いありがとう、大丈夫だから』
『持ってけ、持ってけ』
与えられても返せるものがない。
リィエンは断るが、相手は一歩も引かない。そのうち、機織りをしていた子どもたちの母親まで集まってくる。
クアンは熟れた果実を、お手製の手提げ布ごとひょいと受け取った。
「あっ、何で受け取るんだよ」
「折角のご厚意だ。気持ちよく受け取るべきだろう」
彼が覚えたばかりの感謝の言葉を口にすると、婦人らは満足そうに笑顔を見せる。
クアンが魚を分けても良いかと言うので、大きなものを二匹分け与えると、婦人たちは更にその倍の価値はあるだろう野菜を持たせてくれた。
――あ、また花の香り。
手提げ布をクアンから奪い、「重くないか」という問いに、「このくらい普通に持てる」と返事をした直後だった。
甘い芳香と共に、頭の中身がふわふわと浮遊する奇妙な感覚に襲われ、リィエンは足を止める。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもない」
幸い眩暈がしたのは一瞬で、リィエンはクアンに悟られないよう、平静を装って歩き出す。
――さっきのは何だったんだろう。
鼻いっぱいに空気を吸い込んでみるも、残り香はどこにも感じられない。
他人と暮らすようになり、疲れが出たのかもしれない。
やはり、この男には早急に出て行ってもらわなければ、とリィエンは思うのだった。
◇
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