第一章
第1話 お腹を空かせた孤虎
華国を南に越えた山間部、この地の言葉で古い街を意味するカウカイと呼ばれる場所に、リィエンは暮らしている。
カウカイは位置からすると華国の一部だろうが、山奥の辺鄙な集落なので、未だにどの国の支配も受けていないようだ。
そのおかげか、ここら一帯では独自の文化が発展している。
言語をはじめ、肌の色や顔つきも少しだけ華国の人間と異なるので、種族も違うのかもしれない。
リィエンは華国の出身だが、カウカイの言葉を話し、色とりどりの民族衣装を身にまとうことで、今やすっかり土着民に紛れ込んでいた。
「あーあ、今日も収穫ゼロか」
昨日仕掛けた竹製の罠に魚が一匹もかかっていないことを確認し、リィエンは肩を落とす。
何度見ても籠の中は空だ。昨日も空。一昨日も空。三日前に足の甲ほどの小さなナマズを捕らえて以来、何故か一匹もかからないのだった。
罠があるから気をつけろと、魚の間で情報が共有されているのだろうか。
お喋りをする魚がいたとしても、さほど驚くことではない。
――だって、純粋な人間でもなく、獣でもない、自分のような存在がいるのだから。
普通の人間に見えるリィエンだが、その正体は虎と人間の半獣だ。耳と尻尾をはやすことができるし、完全な獣の姿になることだってできる。
しかし、普段は人の姿でいるよう本能に組み込まれており、身の危険を感じた時か、意思を持って変化しようとした時にしか、虎の姿になることはない。
無暗に正体を明かすことは危険なのだ。
虎は人の手で絶滅させられることを恐れ、半獣として生き残る道を選んだ。――という話は母親から伝え聞いたことだが、あながち間違っていないとリィエンは思う。
華国では虎の骨が薬として高値で取引される。中には見せびらかすために、毛皮やはく製を欲しがる金持ちや、子虎を丸ごと酒漬けにした瓶を飾る好事家もいるらしい。
半獣であることが知られれば最後。追われ、捕獲され、恐怖で虎に変化した姿のまま、全身くまなく人間に利用される。
リィエンの家族が華国を出て、偶然この地にたどり着いたのも、人間である父方の祖母に虎の半獣であることを知られ、売られそうになって逃げてきたためだ。
当時リィエンは八つになったばかりだった。二つ下の双子と、二歳になったばかりの幼子を連れ、母親と真っ暗な山林を彷徨ったことを今もはっきりと覚えている。
父はついてこなかった。母は裏切られたのだ。
図体ばかりすっかり大きくなった弟妹たちは、こんな山奥で一生を終えたくないと家を出てしまったが、リィエンは違う。
人との交流を極力避け、集落外れの質素な小屋で一人、弟妹たちが逃げ帰って来るのを待っている。
人を信じても、どうせ裏切られるのだから、初めから関わるべきでない。
それが父親の裏切りによって得た教訓だった。
「折角冬が明けたのに、ひもじいなぁ」
リィエンは空っぽの竹籠を流れの緩やかな水中へと戻し、重しを乗せながら明日こそ獲物が入るように祈る。
ふと水面に目をやると、痩せた少年が映っていた。
もう少年と呼べる歳ではないのに、リィエンの見た目は大人になることを止めてしまったようだ。
実のところ、虎の半獣は雄でも子どもを生むことができる。これも絶滅を回避するための進化なのだろう。
リィエンは雌としての機能が強い雄なのかもしれないわね、と母親は言っていたが、子どもなんて産む予定もないし、産みたくもない。
雌の機能なんて要らないから、代わりに男らしい体が欲しかった。
末の妹にもあっさり身長を抜かれたので、結局はただの出来損ないなのかもしれない。
「明日はたくさん捕れるかも。我慢しよ」
リィエンは凹んだお腹を撫でた後、空の魚籠と共に帰路についた。
道中、ぐぅぐぅとお腹が鳴る。近くに住む知り合いの家に泣き付くことも考えたが、首を横に振る。
これまでも散々世話になった。一人で生きていくと彼らに宣言してしまった以上、情けなく食料をねだりに行くわけにはいかない。
「うわっ!」
視界の端に黄土色の異物が映り込み、死体を見つけたかと思ってリィエンは叫んだ。
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