第9話

オレは絶句した。

ガクンとアゴが下に落ちて、たぶん相当マヌケな顔をしていることだろう。


思わず左手から滑り落ちそうになったオレのシャンパングラスを、ニックが、すかさず右の手を伸ばして拾い上げ、目の前のテーブルに置いた。


空いたその手を今度はオレの肩に置くと、もう片方の手はソファの背もたれの上に預け、軽く腰を浮かせながら、いっそう上体をオレの正面にねじ向けて、

「10年前、ちょっとした気分転換のつもりで北西部の村を訪ねたオレは、そこで立ち寄ったダイナーのカウンターでバイト中のオマエに初めて出会った」

熱っぽい吐息がオレの顔をほてらすくらいの距離で言う。


オレは、相変わらずポカンとしたままで。

ニックの両腕に囲われる格好になっているから立ち上がることもできなかった。


「その瞬間、ヒトメぼれしたんだよ、ラスティ、……オマエに」


「は?」


「カミラと結婚したのは、カミラの弟であるオマエに近付きたかったからだ。それだけだ」


「……っ!? ふ、ふざけんなよ、テメっ」


「ふざけてなんかいないさ。好きでもない女と結婚して、夫としても父親としても十分なステイタスを捧げているんだ。オマエと義理の兄弟になるためだけに。これほどケナゲな純情がほかにあるか?」

ニックは、格好のいい眉を、さも傷ついたように歪めてみせた。


オレは一瞬ウカツにも、ニックを責めたことに対する罪悪感をおぼえかけたが、さすがにハッと我に返った。


「か、勝手なヘリクツ並べてんじゃねぇぞ! 冗談じゃねぇ、こんりんざいテメェの顔は見たくねぇ!」


オレは、強引に腰を上げかけたが、ニックの両手でそれぞれの肩をおさえつけられると、まるで身じろぎできなかった。


「ツレないことを言うなよ、ラスティ。オレは、ずっとオマエに恋焦がれてきたんだぞ」

ニックは、かすれた声でささやきながら、ますます顔を寄せてくる。


オレは、ソファの背もたれの上に必死に頭をのけぞらせながら、少しでも距離をかせごうとしたが、ニックの高い鼻の先端がオレの鼻先をときおりくすぐるのをもはやまぬがれなかった。


「どれほどこの日を待ったか。10年、いや、15年……」


「15年?」


「本当にツレないヤツだな。……忘れたのか? 人の子よ」


「あ……?」

ゾクッと全身にトリハダがたった。


シニカルな知性を飄々と浮かべていた淡茶色のニックの双眸が、妖しい琥珀色に変色しながら肥大して、白目の部位を侵食していく。


「人の子よ、……いや、今宵を境に、もはや人の子とは呼べないな。誇り高き我が血族に生まれ変われるのだから」

氷のように冷たく陰惨な低い声でささやく間に、引きしまったクチビルの両端からは鋭利な人外の牙がニョッキリとハミ出した。


オレは、ガク然として震えあがった。

「ウソだろ、そんな、まさか、……アンタが、あの日の、キンイロオオカミ!?」


「恐れるな。痛いのは一瞬だ。……すぐに気持ちよくしてやるからな」

わざとらしく色めいた含み笑いを漏らしながら、ニックは、オレの首根っこに顔を落とした。

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