第8話

ニックの正式名は、ニコラだったかニコラスだったか……とにかく、イタリアっぽい響きだったのはたしかで。

屈託のない鷹揚な色気と同時に、ほのかにビターなウィットを共存させている感じが、なるほど、かの地のダテ男の羨むべき性質をホウフツとするんだが、実際のところ、ニックは、生まれも育ちもバリバリのニューヨークっ子だ。


フリーのジャーナリストとして当時売り出し中だった彼が、北西部のド田舎の小村を訪れたのは、壁に貼った全米地図にダーツの矢を投げて、命中した地点を訪ねてみようという気まぐれな思いつきだったそうだが、そこで出会ったカミラにヒトメ惚れするやいなや、すぐさま住む家を探した。


そして、バリバリのニューヨーカーの視点から、ピザの出前すら存在しない田舎暮らしの日常をシニカルに描き出すという企画を男性向けのファッション誌に連載すると、一躍、新進気鋭のコラムニストとして名をはせた。


いかにもイマドキのファッショニスタらしく、アンニュイなくらいの無造作を決め込みながらも清潔感を手放さない。そんな洗練された風貌が、セレブと呼ばれるに足りる充分な権利を、作家としての才能より先に彼に与えていたのも事実ではあろうが。



「……で、まあ、“田舎暮らしのシミついた男が突如ニューヨークに里帰り、大都会の光と影を小気味よく暴き出す”ってな路線で書かせてくれって打診したら、一発で編集長のオメガネにかなったってわけさ」


と、とても“田舎暮らしのシミついた”ようには見えない軽妙な口調とシグサでニックは笑いながら、オレに片方のグラスをよこした。


それから、オレの隣にドサリと腰をおろすと、目の前の壁面全体を占めるウィンドウの向こうの、プールごしの見事な夜景を満足そうに眺めながら、もう一つのグラスをすすった。


ナニゲないふとした沈黙を苦にするほどナイーブなタチじゃないんだが、高級ホテルの最上階のペントハウスで男2人がソファーに肩を並べてシャンパンを味わっているという状況が、どうにもムズがゆくて、オレは、大して興味もないのに尋ねた。

「もう引っ越し先は決まったのかい?」


「ああ、決めたよ。セントラルパークの東のコンドミニアムだ。エージェントに探させたから、どんな物件か直接は見ていないが、もうカギも受け取ったしな」


「そんな大事なことまで人任せか。いい加減だな」


「おっと、カミラには告げ口するなよ?」

ニックは、完璧な白い歯ならびを見せつけるかのようにニンマリと笑ってから、

「親子3人ではモテ余すだろうな。かなり広いフロアらしいから」


「ふうん。景気のいい話だね」


「そこでだ、ラスティ。オマエも一緒に暮らさないか? オレたちの新居に」


「は? 冗談キツいぜ、ニック。いい年した大人がアネキ夫婦の家に転がりこめるかよ。カンベンしてくれ。そもそも、アッパーイーストサイドなんてオレのガラじゃない」


「だったらその物件はキャンセルして、……チェルシーならどうだ? あそこは芸術家が多いから、オマエも肌に合うよ、きっと」


「ちょ、ちょっと待てってば! 正気かよ、ニック? こんな話、カミラが聞いたらブチ切れるぞ」


「心配いらないさ。カミラとコナーも、オマエと暮らせるのを待ち望んでいるんだからな」


「ウソつけ。今日カミラと電話で話したけど、そんなことヒトコトも言ってなかったぜ?」

そう言い捨てて、オレは、つい舌打ちをもらした。


座興にしてもシツコすぎる。なによりセンスがない。


するとニックは、シャンパングラスをサイドテーブルに置くと、座ったまま上体をずらして正面からオレを見据えた。

「そんなにオレに本音を言わせたいのか、ラスティ? 酔狂なモノカキの気まぐれにしておけば、お互い気まずい思いをしなくてすむのに」


「なんだ、それ? 意味わかんねぇし。ハッキリ言えよ」


「言わせるなよ、ラスティ……」

ニックは、疲れたような微苦笑で語尾をにごして、思わせぶりなタメ息をついた。


渋味と甘味の適度にブレンドされた端正な顔に、無精と呼ぶにはアカヌケしすぎた洒脱なアゴ髭が、絶妙なスパイスを加えている。

伸びかけの無造作なトビ色の髪が、精悍な頬に一束ほつれて物憂い影を落としたのをキッカケに、百戦錬磨の色男の成熟したフェロモンが場違いに本領発揮しはじめたのを感じとり、オレは、ますます困惑した。


だが、いつもはシニカルな知性を軽やかにただよわせている淡茶色の双眸が、切羽詰まったような異様な熱気でギラギラと輝いていたから、冗談にして笑いとばすことも、目をそらすことすらもできなかった。


サビを含んだ低い声で、絞りだすようにニックは言った。

「一緒に暮らしたいんだ、ラスティ。オレのそばに、いつでもオマエを置いておきたい……」

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