第2話 君を喰らった君に似たナニカ

 化け物という言葉がもし、当時の人間はまだ知らぬ悍ましい生物を指して生まれた言葉だったのなら、まさしく今この場所で使うのが最も言葉の意味に適していると言えるだろう。

 外見は沓掛穂月。だが、中身はどうだ。

 眼球はそれぞれが独立した動きを見せており、空中にふよふよと浮かぶ埃を追っている。

 しかしやがてそれは秋人を焦点に捉え止まった。

 光すら呑み込むような漆黒の瞳孔に、枯れ葉のような焦げた茶色の虹彩。その虹彩に、瞳孔から滲み出るようにして枝分かれしながら広がっていく一段階明るいはしばみ色。

 何度も見慣れた、沓掛穂月の瞳。

 その中身が、得体の知れない怪物だと知っていても。


「あ、あぇ……」


 素っ頓狂な声を穂月の口が上げ始める。

 まるで喃語だ。そこに、成熟しかけた人間の知性はこれっぽっちも感じない。

 声は次第に意思を帯びていく。


「ぉ……おぉんい……くっ、くぉっ」


 何かを、発そうとしている。

 秋人はそれを、ただ眺めることしかできなかった。


「こぉん……にちぃは」


 口の動かし方が、徐々に人間らしくなっていく。そして。


「んこん……にちは」


 優しい声色ながら、沓掛穂月だったものはどこか感情のこもっていない冷酷な口調でそう言い放った。

 軽く首を傾げる仕草は愛玩動物のように愛らしいが、濁ったようにも感じる乾いた瞳は釘付けにされたように据わり、ただ秋人の瞳だけを覗き込んでいる。

 対する秋人は、何も言葉を発さない。

 触手が巻き付いた足首も、恐怖と吃驚とその他諸々が入り混じった表情も。まるで彼自身の時間が止まってしまったかのように動きを止めている。

 秋人は、自分に芽生えた恐怖を、眼前の現実を受け入れきれずにいた。

 柴犬の形をした怪物が、想い人である沓掛穂月を殺害し、食らった。そこまでは、彼の記憶にも新しいところであった。

 だがどうだろう。そんな怪物はあれよあれよと姿を変容させ、気付けばもう沓掛穂月になっていたのだ。

 いつもと変わらない。全くいつもと変わらない彼女だ。

 まだ袖の長いブレザー制服の姿も、熟れた唇に白い肌にくりっとした目も、首を傾げるあざとい仕草も。

 彼女の口から、「ふふ、騙されたね?」なんて可愛らしい言葉が、今にも出てくるのではないかと思えるほどに。


「だぁいぶ、ぬぁれていた」


 だが、沓掛穂月を模した怪物から発せられた言葉が、秋人を現実へと引き戻す。

 つぎはいだような、歪な発声。まるでラジオの音声を切り取り、辛うじて意味の通る音声に編集したかのような、そんな声。


「こんにちは」


 しばらく、空を見上げながら練習のように怪物は発声を続けていた。

 ただ、そうしている内に満足したのか。怪物はようやく秋人を見下ろす。


「大分慣れた。こんにちは。合っている?」


 まるで、最近日本語を習ったばかりの外国人観光客のようなたどたどしい発音。だが、意味は通じる。

 秋人は答えない。否、答えられない。

 眼前の怪物が怪物であると、秋人は認めたくない。


「雄、返事をしない何故? こんにちは発音することヒトの習性認識、何故?」

「……」

「雄。訊いている。何故答えない? 雄、雄を指す言葉間違い?」


 未だ呆然とする秋人に、怪物は再び一切の感情を含まない声色で問う。


「お前……っ」


 秋人の口の隙間から僅かな声が漏れる。

 その声に、自分自身ですらたった今気が付いたかのような表情を浮かべると、同時に俯く。


「お前……お前二人称? 正しい二人称何?」

「お前さぁ……ッ!」


 公園の土を握りしめ、爪先に土が詰まった人差し指を、秋人は怪物の顔に向ける。

 涙を堪えたような声で叫び、歯を食いしばりながら。


「何なんだよッ!! 沓掛を返せよ……ッ!!」

「返せ? 不可能。雌……ヲ食べた。この姿証拠。もしくは、ヒト破壊する細胞を復元する技術ある?」

「どうでもいいよ! お前……一体何なんだよ……ッ!!!」


 秋人の一際大きな叫びに、怪物は即座に返すことなく反芻するように黙り込む。

 数秒ののち、怪物は再び口を開いた。


「何が指すものこの個体なら、その解答不可。この個体、も体を正しく認識できていない」


 怪物は慣れていないのか、大げさな動作で息を吸った。


「確実な事象は。この個体の種、脳、食べ解析寄生する。経験も知識も同じ。つまり」


 名を呼ばれ、面食らったような表情を浮かべる秋人に、怪物はその端正ながら表情による色が一切無い作り物のような顔を近付ける。

 腰を落とし、屈むような体制で。困惑と恐怖に染まり体液によりぐちゃぐちゃに濡れた秋人の顔を覗き込むように。


「前の個体、沓掛穂月と今の個体、何も変わらない。記憶、経験、声も顔も全部同じ。だから、保科秋人」


 怪物が一歩引き、そして両手を広げる。声色はすっかり、沓掛穂月の物となっている。


「私は、沓掛穂月だ」


 秋人は時が、止まったような錯覚を抱いた。彼女の言葉が何度も脳内で反響し、次第に遠のいていく。

 眼前の怪物が沓掛穂月。冗談じゃない。


「冗談じゃないッ!」


 気付けば、そんな思いは口から飛び出していた。今度は怪物が目を丸くし秋人の言葉を待つ。


「あいつはこんな喋り方しない! あいつは良く笑うやつだった! 笑顔が可愛いやつだった! 言葉の端が上がる癖も、笑う時できるえくぼもお前には無い! 無いんだよ……ッ」


 言葉の途中から力が抜けるように、秋人の視線は地面に落ちていた。視界が潤む。気付けば、大地に置いた両手の甲が涙で濡れていた。


「そうか。私の擬態完全ではない言いたいんだな保科秋人。……――――。いや、そうか、名案をがある」

「な……うわっ!?」


 徐々に言語が流暢になっていく。

 秋人の脚に絡まったままの触手がぬるりと蠢き、秋人の身体を容易に吊り上げた。

 困惑に声を漏らす秋人の視線は、そうして反強制的に沓掛穂月に似たナニカの視線と激突する。

 怪物がその口を、三日月のように歪めた。


「ならば保科秋人、が私に教える。ヒトの笑い方、ヒトの鳴き声の喋り方、私の擬態を完全な、沓掛穂月となれるように」

「なんでそんなことッ!」


 沓掛穂月の不気味な微笑みが抜け落ちたかのように消え去った。

 代わりに現れたのは、保科秋人の記憶にこびり付いて離れることは無かった。何度も目にして尚飽きる事無く、独占欲すらも働いた、えくぼが可愛らしい、笑顔。

 何故、こうなった。

 秋人は自責の念に囚われていた。

 もっと早く告白すればよかったのか。集合を遅らせればよかったのか。そもそも今日にするべきではなかったのか。

 考えれば考える程、頭はマイナスにマイナスを乗算する。

 思考はまるで昏く深い深海にでも落ちたかのように。言葉が出ない。口が動かない。もうあれ程思った人はいないのだという、告白を為せなかった悲しみ。沓掛穂月を奪ったこの怪物に対しての疑問と憤慨。

 ただそれも、その次の怪物の言葉で全てが。その全てが救われた気がした。


「好きです、保科くん」


 秋人は、怪物の言葉を断ることが出来なかった。


「だから、私を手伝ってくれない?」

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君を喰らった君に恋する 朽木真文 @ramuramu

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