君を喰らった君に恋する

朽木真文

第1話 君を喰らった君に似たナニカ

 何度も練習しても、いざ本番のことを思うと足が竦み、舌が痺れるように上手く動かない。

 頬は紅潮し、動悸は自分自身で知覚できる程に激しい。思考は常に一つの衝動に支配され、それに突き動かされる身体を辛うじて理性で縛り付ける。疾うに記憶領域に隙間など無く、二次方程式が入る余裕など欠片も存在しない。

 保科ほしな秋人あきひと。今年で高校一年生になった、平凡な男子高校生だ。

 そんな思春期真っ盛りの彼にとって、それほどまでに『告白』というイベントは大きな出来事である。


「はぁ……はぁ……」


 息も絶え絶えで、爛々と周囲に存在感を示す赤信号を前に秋人はペダルを漕ぐ脚を止める。ただ、その視線はキョロキョロと眼前を水平に走る車線の先に向いており、傍目からは忙しなさが目立っていた。

 やがて往来する通行車両の流れに切れ目を見つけたのか、秋人は信号から少し横にずれ、立ち漕ぎで斜め横断することで向かいの歩道へと入り込む。

 飛び出しを確認しても急には止まれないような危険な加速で、深緑色の自転車が歩道を彗星のように駆けていった。

 彼の思考の中あるのはただ一つ。否、一人。同級生の沓掛くつかけ穂月ほづきの存在だけだ。

 出会った切っ掛けは中学二年生の頃、クラス替えで偶然クラスメイトとなった時だった。

 自身が読んでいた推理小説を皮切りに会話が生まれ、互いに友人が少ないという共通点で意気投合し、今では二人きりでカラオケに遊びに行く程の仲となった。

 普段は大人びた麗しい雰囲気を纏いながらも、話してみれば非常に快活でよく笑う。そんな彼女に、徐々に惹かれていた自分がいた事には自分でも気付いていた。

 ただ、自身の恋心に自覚しつつも、秋人は進学で別離することを予期していた。

 中学から高校に進めば当然、見える世界が広くなる。そうなれば、彼女が恋心を抱く相手も出てくるだろう。

 そう思い、秋人は彼女の未来の為静かに身を引いた。

 否、それは建前だ。本当は、今のような関係が崩れることが、震えるほどに怖くて仕方なかったのだ。

 一歩を踏み出す勇気をいつまでも出せず、秋人は彼女に特に何も告げることなく、別々の高校へと進学した。筈だった。


『あれ……? 保科……くん?』

『お前……沓掛だよ……な?』


 高校の入学式。閉会式も終わった昼下がり。ここに沓掛がいれば、これからの学校生活がどれ程彩られるだろうか、等と夢想しつつも理想と現実の乖離に落胆し、いざ帰ってゲームでもと正門を潜り抜ける

 その時秋人がふと、正門脇に置かれている『祝、御入学』と記された白塗りの木の板に、目線を向けた時の事だった。

 見覚えのある髪型と、垂目の少女と目が合ったのは。


『まさか、同じ高校だったとはねー……。保科くん、聞いてる?』


 その日から、穂月の声をまともに聞く事は出来なくなった。

 何度も聞いて来た筈の彼女の声が、蕩けるような心地よい熱を孕む液体となり、耳から身体に入り込み脳を溶かし思考を操る。

 視界には不思議なフィルターが掛かったように、穂月以外の女性が有象無象にしか見えなくなった。心室が風船の如く膨張し、今にも破裂しそうなほどの動悸が収まることは無かった。

 運命という二文字が、何度も何度も脳裏を過る。

 これが恋となのかと、再認識した。

 呪いにも等しいこの感情を鎮めたい。今すぐにでもその矮躯を抱きしめ、その身体を全て自身のものにしたい。

 そう考えるようになるには、さほど時間が掛からなかった。

 そして休日の今日、穂月を近所の公園へと呼びつけた。

 住宅街の隙間にぽつんとあるその公園は、周囲に人気こそないもののその中心には巨大な桜の木が聳えており、彼ら二人だけの花見の穴場。

 ただ、五月と言う花見には遅すぎる時期であっても、近所に同じ高校の同級生がいないことが好都合で、今でも二人の待ち合わせ場所としてよく訪れているような場所だった。

 綿密に組んだデートプランがある。昨日の就寝前、何度も何度も見返して確認したプランが。彼女には、いつも通りカラオケでも行こうと告げてはいるが、今日は違う。偶然を装いカラオケの予定をデートにすり替え、思いの丈を打ち明ける。

 安物の黒いデジタル腕時計に視線を落とし、ペダルを漕ぐ脚に更なる力を加える。

 緊張故か、身支度に少し手間取ってしまい、約束の時間まであと五分といった所。ただ、スピードを出せば、十分間に合う距離だ。

 これから気合を入れたデートをしようというのに、遅刻寸前とはなんとも情けなく、みっともないことか。秋人は己を𠮟り付けながら、車体を大きく傾け最後のコーナーを曲がった。

 公園の入り口に僅かに、穂月の赤い車体の自転車が停められているのが見える。何度も見た自転車だ。間違える筈もない。

 スピードに乗った車体をブレーキで無理矢理に速度を落とし、反動で腰が浮くのをハンドルを少し切ることで対処する。そうして半ばドリブルのように、靴底を削りながら秋人の自転車は穂月の隣に同じような向きで停車した。

 秋人は視線を上げる。公園の中に、穂月は既にいる筈だ。

 見れば、桜の木の奥。秋人からは丁度視認できない位置から、土を踏むような音が少しだけ聞こえてくる。続けて、咀嚼するような粘液の音も。

 お菓子でも食べているのだろうか。等と思考を巡らせ、いつもなら抜き取っている自転車の鍵を取ることも無く、逸る心と相乗りするように早歩きで公園へ入った。

 公園入口の車止めを蛇のように器用にすり抜け、桜の木の前へ。葉桜が見知った顔を迎えるように静かに揺れる。


「はぁ……はぁ……沓掛!」

「……」


 公園に響き渡る秋人の声。肩で息をしているからかどこか苦し気で、その上緊張からか少し上ずった声。

 返事は無かった。帰って来るの沈黙と、先程とは違い秋人から隠れて咀嚼するような、小さな音。


「……沓掛?」


 違和感が脳を衝く。再び、穂月による返事は無い。あるのはやはり沈黙と咀嚼音。先刻と何が違うかと問われれば、答えられる自信は無かった。

 ゆっくりと、秋人は足を持ち上げて前方へ置く。

 すると、足元も違和感を感じ取った。何か、柔らかいものを踏んだのだ。

 以前、スーパーに母と共に買い物に出た時、パックに入った肉塊をビニール越しにぷにぷにと押しているのを見て、自身も真似したことがる。

 母曰くあれは、押すことによりドリップを確認しているとの事だったが、どうやらそれに近い。肉を足蹴にしたような、そんな感覚だったのだ。

 足をどかし、視線を落とす。


「……?」


 最初は、地面に落ちていた物が理解できなかった。

 否、脳が理解を放棄したという表現の方が現状の説明には適しているかもしれない。

 至って普通の人生を生きて来た秋人にとって、それは至極見慣れたものではあった。触れたこともあるし、自身も有しているものだ。口に入れた事すらもある。日常に溶け込んだそれは、あることが当然の物なのだ。

 ただ、それがあるべき場所から剥離することはあり得ない。だからこそ、理解を放棄したという表現こそが相応しい。


「……」


 秋人はその物体を凝視する。頭に浮かびかけたその事実を疑うように。

 そこに刻まれた幾つもの皺が、細部まで不規則的な模様を描いていた。その皮下には僅かな陰のような青紫が透けており、それらは木の根のように複雑に至る所へ走っている。

 本体部分と思われる一際大きなものから枝分かれした五つの部品は細長い。ただ特徴はそれだけで、本質的には同じだ。幾つもの皺が刻まれつつ、その下には毒々しい青紫が走っている。

 思考のもやが晴れつつある。同時に、状況への理解が進んだ。


「……ひ」


 縊られた鶏のような、情けない声が漏れる。

 手、だ。

 切断された人間の手首が、そこには落ちていた。

 皺の刻まれた皮膚は白くきめ細やかで、若々しいものだ。爪先は綺麗に整えられており、元の主の几帳面さが伺えた。

 皮膚下に迸る青紫の血管はどくどくと脈打ち、覗く桃色の切断面からは今も尚鮮血を吹き出し続けている。赤と白の入り混じった骨の切断面は荒々しく、鋭利な刃物で断ったものではないことが分かる。

 何故。疑問が浮かんでは、恐怖により掻き消される。

 何故。恐怖が湧き上がっては、疑問により翳った。


「え!? え!?」


 困惑と恐怖のままに後退りし、ポケットに突っこんだままだったスマホに手を忍ばせる。逃げるように公園の外に出、通りを見渡し誰もいないことを確認すると、慌てた様子でスマートフォンを取り出す。

 以前推理小説で見た、バラバラ殺人を思い出す。あの事件判明の切っ掛けも確か、公園を犬の散歩に連れていた男性が人の手首を発見するという、似たような状況であった。と、思い出しながら。

 震えた手で画面を灯らせ、パスワードを解かずに緊急連絡の画面を開いた。いち早く警察に連絡しなければならない。そんな焦燥が指先の照準を鈍らせる。

 一、一と、緊急通報用の番号を半ば打ち終えたその時、視界の端に赤が写った。

 穂月の自転車だ。鍵は抜き取られ、回転を妨害する金属の輪が後輪には通っている。籠の中には無論、何も無い。所有者は自転車を降り、徒歩でどこかへと向かったのだろう。

 この公園は住宅街の隙間にぽつりと出来たもの。周囲にコンビニ等の施設はあるにはあるが絶妙な距離で、それらの場所に行くのならば自転車に乗った方が早い。

 その事実に加え、鍵は抜いてあるのだ。では穂月は、一体どこに消えたのか。


「沓掛……!」


 当初の目的だった筈の笑顔を思い浮かべ、秋人は再び公園の中へと脚を踏み入れる。

 どくどくと血を吐き続ける人間の手首などもう、彼の視界には入らない。思考の中には、最愛の少女の破顔しか無いのだから

 土を蹴り、空中を駆ける。この公園で入口に立つ秋人の視界から遮られるのは、あの桜の陰のみ。

 先刻聞こえた土を踏む足音。

 もしかしたら、彼女は隠れているのかもしれない。秋人と同じように落ちている手首を見つけ、その直後に現れた人の気配を恐れ、耳を塞いで目を瞑り、外界からの情報を全て遮断して隠れているのかもしれない。

 そんなあり得るはずのない希望的観測を胸に、意を決し桜の木の横を回り込み、決然とした瞳で前を見据えた秋人は再び、思考がオーバーフローを起こすことになる。


「沓掛……?」


 目が合った。生気の一切感じられない、見覚えのあるたれ目と。熟れた唇は呆けるように空いており、血の混じった唾液を垂らしていた。

 小さな鼻からは、いくつも枝分かれした血液が流出している。烏の濡羽のような黒髪は山姥のように振り乱され、その表情は恐怖からか別人のように歪んでいた。

 首から下は、存在しない。穂月の生首が地面に落ちてたのだ。ただ、秋人は察する。

 傍らに立つ、犬の体をした異形の生命体が今も尚咀嚼し続けているのは恐らく、彼女の肉体なのだろう。

 それは奇妙な生命体だった。

 体は犬そのもの。どうやら柴犬のようだ。栗色の毛は葉桜の隙間から僅かに差す陽光を受け、黄金色にも見えてくる。ただ、くりんと巻いた尻尾は不自然にも、一切の動作をしていない。

 犬の首から上は、まるで別物だった。


「———―」


 首から上、穂月の頭を器用に触手が絡め取り、口と思わしき部位の内部へと持っていく。

 ぱかーっと開いたその大口は、まるで花開いた百合のようにいくつもの花弁に分かれていた。その内側には、鑢のようないくつもの小さな白い突起がついているが、その殆どは薄桃色の肉塊によって醜いデコレーションをされている。

 花ならば雌蕊や雄蕊がある位置には、蛇のようにうねる触手がいくつも。言葉を失い硬直する秋人の様子を窺うように、ちらちらとその先端が揺れ動く。

 花弁が奇妙に脈動し、器用なことにもう頭だけになった穂月を奥へ奥へと運んでいき、やがて花弁は閉じた。

 それは徐々に形が整えられていき、数秒後には完全な柴犬がそこにはいた。大きく濁りの無い瞳を秋人に向ける。

 刹那。ドクン、と。柴犬を模した怪物の肉体が一瞬膨張した。


「やめ……――――」


 次は自分が餌食になるのかもしれない。そう考えたのか、秋人は慌ててその場を逃げ出そうと、身体の向きを反転させた時だった。

 鈍い音が響き、秋人が派手に転倒する。

 足が動かない。まるで、大地に縛り付けられたかのように、彼の意に反して微動だにしないのだ。

 恐怖に満ちた瞳で彼が自身の足を見る。爪先に、足首に、くるぶしを舐めるように、絡み付く幾つもの触手、触手、触手。

 柴犬の擬きの標的は彼の見立て通り、保科秋人へと移行したのだ。


「あ、あぁ、あ」


 死の恐怖に喘ぐ最中、再度脈動した柴犬擬きの肉体が変容していく。

 徐々に、徐々にその体躯は人間と然程変わらない程度へと膨れ上がり、栗色の毛は黒く濁っていった。


「あっえ」


 怪物が、言葉にならない言葉を発した。

 赤子が発する喃語のような、明確な意思を持ちつつも言語の法則には従わない。そんな声。

 変容は速度を増していく。

 一部を除き体毛が消え失せ、現れるのは剥いた卵のようなきめ細かい肌。胸部は二つの風船が膨れ上がるように盛り上がり、頂点は桃色に色付く。

 四肢は伸びていき、先端は五本の指に分かれた。爪はいずれにおいても丸く整えられた上、磨き上げられているようだった。


「まって」


 漸く、怪物は言語を発した。優しく染み渡る、慈母の如き声色。それでいて、秋人にとって酷く聞き覚えのある声色。

 脚先の肌色から黒が浮き出て、彼女の脚を覆った。それは靴下のような布の質感を有しており、数瞬も待てば細部の解れに至るまで完全に靴下を真似ていた。

 そうやって肌から浮き上がるように、怪物は靴を履き、下着を付け、スカートを、ワイシャツを、ブレザーを、リボンを、校章を纏う。沓掛穂月を、模していく。

 秋人が言葉を失った。抵抗する気概すらも削がれたかのように、怪物を顔面を凝視した。


「くつかけ……?」


 そこには、沓掛穂月がいた。

 焦げ茶色のローファーと、太腿の半ばまで白い肌を覆い尽くす黒いハイソックス。藍と白が目立つタータンチェックのスカートは膝丈で、そよ風に合わせて緩やかに揺れ動く。

 ボタンの留められていないブレザーは藍色で、左胸元に光る校章は秋人も同じものを有している。ブラウスの胸部には確かな膨らみが存在し、首元には赤いリボンが蝶結びで垂れていた。

 穏やかな表情の彼女は、地面に這いつくばり目を丸くし彼女を見据える秋人を小首を傾げて垂目の瞳に映す。

 熟れた唇、可愛らしい小さな鼻、艶のある黒い髪。全てが秋人の記憶の中に存在する、最も愛しい君。

 ただ違う。両手の先からは薄桃色のイカの脚のような触手が幾つも伸びており、今も尚秋人の脚を締め付けている。彼が暴れる衝撃を本体に伝えない為なのか、何度も何度もうねりながら。

 間違いなく、秋人の眼前に立つ少女は人間ではない。恋焦がれ続けていた、穂月では無いのだ。だというのに、彼の脳は彼女の事を穂月と認識して止まない。


「まって……――――」


 彼女は、穂月擬きは熟れた唇を艶やかに動かし、言の葉を紡ぐ。

 鈴のような心地よい声。寄生虫のように耳の中へと忍び込み、警鐘を鳴らすもう一人の自分を絆す。細胞一つ一つが活性化するように心地よい。脳が絶頂に達したかのような異様な興奮を拾い上げる。

 彼女の破顔が、脳裏に過った。


「――――……保なクン?」


 沓掛穂月を模した怪物は秋人の記憶には無い、悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。

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