第30話 人の心
過ぎてしまった過去を変えることはできない。
起きてしまったことは、元には戻らないし、受け入れて前に進むしかないのだ。
数々の理不尽が覆い被さり、人の感情は死んでゆく。
だから……今、後方で泣いているグラズのことが、ほんの少しだけ羨ましく思う。
「ひぐっ……!」
思えば、涙を流すこともなくなった。
悲惨な光景を目にして、『可哀想』であるとか『許せない』であるとか、感情の抑揚はまだ残っているが、その感情が限界まで振り切れることはない。
「…………」
……どこか、冷めている。
私は、人としての何かが足りていない。
あらゆる事象に対して、どこか他人事のように捉えてしまう。
大事な人を失う経験は、私にはない。
──涙を流すほどに、大切な人。そんな存在、私にはいなかった。
「聖女様……すみません。お見苦しいところをお見せしました」
「私は何も見ていないから、気にしなくていいわ。それと、私は聖女様じゃない……」
グラズが落ち着いたところで、私はゆっくりと振り向く。
「私は……闇落ち聖女のノクタリア。この世の理不尽に、己の理不尽をぶつける者よ」
冷酷で残忍。
ただ、罰すべき人間を制裁していくだけの存在。
それが闇落ち聖女であり、ある意味、人間としての道を踏み外した者の末路……なのかもしれない。
私は彼に対し、小袋とは、別に金貨の入った袋を渡す。
ジャリンと硬貨の音が鳴り、その重みにグラズは驚いていた。
「ノクタリア様……これは?」
「餞別よ。それだけあれば、暫く不自由のない生活を送れるはず」
「こんなに、頂けません! 息子を連れてきてもらって、金銭の援助までして頂くなんて……」
「黙って受け取りなさい。これから貴方は、息子の分まで幸せになるのよ」
「……ノクタリア様」
グラズには、まだ先の未来がある。
渡した金貨で、一生暮らせるわけではないが、生活を立て直すためだと考えれば、十分な量だ。
「じゃあ、私はもう行くから。さようなら……グラズ」
彼に再びグラズに背を向ける。
私にはまだ、やるべきことがある。
彼のように悲しみを背負った人を少しでも減らすために、私は次なる制裁対象の元へと赴かなければならない。
「ノクタリア様……!」
グラズは、まだ何か言いたそうだ。
しかし、私はもう彼と話すことがない。
「……私と出会ったことは、忘れなさい」
言い残して、去ろうとした。
けれども、パシリと手を掴まれる。
指先に伝わる熱。
脈打つ鼓動が、聞こえてくるようだった。
「待ってください……ノクタリア様。俺まだ、貴方に恩を返せていない」
「恩を与えたつもりはないわ。これは、正当な利害関係の上に成り立ったもの。私から貴方への報酬に過ぎないわ」
「屋敷の脱出を手引きしたことの報酬にしては、高過ぎる……」
「これは、私の価値観で判断を下したの。貴方の意見は聞いていないわ」
これ以上は良くない。
私との関わりを持つことが、自分の人生にとってどれほど不利益になるのかを、グラズは理解していない。
短期での関わり合いなら良くても、その先もずっと関わろうとする姿勢は、今すぐ治すべきだ。
それでも、グラズは手を離さなかった。
「ノクタリア様、お金はいりません。その代わり…………俺を連れて行ってください!」
そして、彼は最悪の選択をしようとしている。
──私に付いてくる?
愚か過ぎる。
私と行動を共にしても、辛いことしかない。
根っからの善人であるグラズには、相当過酷な環境が待ち受けている。
泥水を啜り、辛酸を舐め、心を殺して日々を生きる。
それは、死ぬよりも辛い。
「……その言葉、必ず後悔するわ」
「しません! 俺は、貴女に惹かれました!」
「一時の感情に身を委ねると、破滅するわよ」
「それでも、構いません。屋敷で一生を終えるような人生を送るより、よっぽど幸せです」
グラズは頑なに私との同行を望んでいる。
息子を失ったから、ヤケになっているのだろうか。
彼の考えていることが全く読めない。
彼の瞳は、絶望に満ちたものではなかった。
ひたすらに燃えるような信念を宿している。
そんな、強くしっかりと先を見据えたような瞳。
直感的に、私とは相性が悪そう……そんなことを感じてしまった。私の正義が、彼にとっての正義になるなんてことはない。
「……手を離して」
「離しません。貴女が俺を連れていってくれるまでは!」
「はぁ……分からないわ。どうして自ら茨の道に足を踏み入れようとするのかしら?」
グラズが私の手を握る力を強める。
彼なりに覚悟があるようだが、私にはそれがどういう意図を持ったものなのかを推し量れない。
……人の心とは想像以上に難しい。
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