07.恥ずかしいからやめて
翌日は人形市に連れて行ってもらったり、観劇に行ったりして過ごした。
キアリカとエルドレッドは毎日毎日朝から会うと、時計塔に行き、美術館や博物館に行き、ショッピングを楽しみ、小さなお店を隅々まで歩いてまわったりして過ごすこととなる。
「今日は、どこに連れていってくれるの?」
帝都生活、二十五日目である。
帝都をほぼ隈無く行き尽くしてしまった感があった。折角だからどこかに旅行したい気持ちはあったが、騎士団長補佐であるエルドレッドはなにかあった時のために、あまり帝都から遠くには離れられないのだろう。それはキアリカも同じなので、よくわかっている。
「今日は俺の趣味に付き合ってくれるか?」
「趣味? なぁに?」
「釣りだ。まぁあんまり行ってないんだけどな」
「へぇ、釣り? やったことないわ」
「本当か? ならやろう。釣れると面白いぞ」
「いいわね!」
初めてやることというのはワクワクする。
エルドレッドはキアリカの分の釣り道具も用意してくれ、川に向かった。帝都から少し離れているところに綺麗な川が流れていて、教わった通りに糸を垂らす。
キアリカが釣ったものは小魚ばかりだったが、エルドレッドは結構な大物も獲れていて、鼻高々と言った表情に笑ってしまう。
「どうだ、キア。すごいだろ?」
「ええ、本当ね。これ一匹で、三人分のお腹は満たせそうな感じ」
こんな風に笑っていると、満たされているのは自分の心なのかもしれないと思い当たる。
普段の職務を嫌うわけではないのだが、こんな風に誰かとのんびり一緒に過ごせる時間が今までなさ過ぎたのだ。
お腹が満たされると幸せな気分になるように、きっと心も満たされると幸せになれるのだろう。
キアリカは今幸福を感じていることに、少なからず驚いていた。
「あ、また掛かったわ」
「取ってやるよ」
「大丈夫よ」
ビチビチと跳ねる魚を、キアリカは片手で器用に外してボックスに入れる。
エルドレッドはさっき取れた大きな魚を血抜きしていた。その尻尾の部分に縄を括り付けて担いでいる。
「よし、日が暮れる前に帰るぞ。こいつも早く調理しないとな」
「ちょっと待って、手を洗って来るわ」
キアリカは川辺に膝を着くと、右手をバシャバシャと洗った。しかしクンクンと手を嗅いでみると、まだどこか魚臭い。
「宿に戻ってちゃんと石鹸で洗わなきゃ駄目ね」
「そんなに匂うか? どれどれ」
「ちょっと、自分の手を嗅ぎなさいよ」
エルドレッドはキアリカの手を取り、クンカクンカと匂い始めた。その顔は、なぜか至って真剣だ。
「そんなわからないけどな」
「恥ずかしいからやめて」
そう言って手を振り払おうとした瞬間のことだった。
それまでよりも強く手を握られたかと思うと、ぐいっと引き寄せられる。
あ、と思った瞬間には、なぜかキアリカはエルドレッドとキスしていた。
「っちょ!」
「おお」
なにが『おお』だ。エルドレッドはちっとも悪びれた顔をしていない。
「なんでキスするのよ」
「したかったからだ」
「なにそれ……」
呆れた理由にキアリカは嘆息する。
「まぁいいわ。もう帰るわよ」
「あっさりしてるな。もっとなにか言われるかと思ったが」
「生憎私は二十七歳よ。それなりに色々経験してるわ。キスくらいでギャーギャー騒いだりしないわよ」
「そうか、二十七歳か。思ったより結構年だったな」
エルドレッドの言葉に、キアリカはキッと彼を睨み付ける。確かにキス程度で騒ぐつもりはないが、女に向かって『年だ』などと、言っていいことと悪いことがあるだろう。
「うるさいわねっ! 私が何歳でもエルドさんには関係ないでしょうっ」
「いや、まぁ何歳かは聞きたいと思ってた。中々聞けなくてな。今日知れて良かった」
「は?」
なぜ年なんかを知りたがるのだろう。嫌味を言うためだとしたら、いい性格をしている。
「俺の年齢を教えてやろうか」
「別にいいわ。興味ないもの」
「……酷い言われようだな。俺は三十五だ」
別にいいと言ったにも関わらず、エルドレッドは勝手に教えてくれた。三十五歳というと、シェスカルよりひとつ年上のようだ。
「あ、そう」
まぁ年相応の顔立ちと言えるだろう。他になんの感想も持たなかったので、そんな言葉でキアリカは終わらせた。
「……帰るか」
「ええ」
エルドレッドはどこか疲れたような面持ちで馬に跨った。長時間釣りをしていたからだろうか。
キアリカも手を引かれて馬に跨ると、カッポカッポとゆっくり歩み始めた。
「残り五日だな」
カッポカッポ。
それだけが響いていた景色に、エルドレッドの低めの声が溶ける。
「……そうね」
エルドレッドが休みを取れた日数は、三十日。もう二十五日目が終わろうとしているから、残りは確かに五日だ。
彼と過ごした二十五日間はとても楽しかった。それが残りたった五日しかない。
それを過ぎればエルドレッドは職務に戻り、団長を引き継ぎ、おそらくは一生騎士団に身を投じることとなる。キアリカとのこんな時間は、もう紡げないに違いない。
あと、たった五日。
そう思うと胸の奥がギュッと縮まるように痛んだ。
子どもの頃にあった夏休みが終わってしまう……その寂しさと同じなのだろうか。そんな物とは比べ物にならないくらいの胸の痛みではあったが。
けど、いつまでも遊んでいるわけにいかないものね。
私は隊長で、エルドさんは団長となる人なんだもの。
大人なのだから、きちんと理解している。五日後には、この楽しい夏休みが終わることも。
ずっとずっと遊んでいたいという我儘など、言えるはずがない。
帝都に戻ると、エルドレッドは宿まで送ってくれた。その場で魚の入ったボックスを開き、中に入った大量の魚を見せてくる。
「キア、どれを食べる? 宿の者に言って今日はこれを調理するよう頼んでおこう」
「そうね、私が釣った魚を二、三匹、適当にお願いするわ」
「これはいらないか?」
「そんな大きな魚、私が全部食べられるわけがないじゃない」
「そうか。じゃあこれは俺が家族と食べよう。子どもらを驚かせたいしな」
ピクッ、とキアリカの表情筋が笑顔のまま固まった。エルドレッドはそれに気付かず、「じゃあな」とボックスを閉めて厨房へと向かっている。
キアリカは軽く手を振って見送ったあと、部屋の中に駆け込んだ。
バタンと乱暴に音を立てて扉を閉め、ベッドの上に転がり込む。
「家族……子ども……!?」
そうだ、彼は三十五歳だ。家族がいても、子どもがいても……妻がいてもおかしくない。
ただ、キアリカが知らなかっただけだ。聞く機会はいくらでもあったというのに、興味がないからと言って……興味のないフリをして、尋ねなかったから知らなかっただけだ。
キアリカの頭は、石を投げつけられたかのようなショックでグワングワンと回っている。視界をクルクルと回されているようで、目の前がちゃんと見えない。
「私、どうしてこんなになってるのよ……どうでもいいじゃない……エルドさんが既婚者でも……っ」
元々エルドレッドは、怪我をさせたお詫びにとキアリカに付き合ってくれていただけだ。そこには純粋な誠意だけで下心もなかったのだから、なにも傷つくことはない。
でも、それならなぜ今日キスをしてきたのだろうか。そんなことでグダグダ言うつもりではなかったが、相手が既婚者だとすれば状況が変わってくるではないか。
彼の妻に浮気相手だと認定されては、ディノークス騎士隊長としての立場が悪くなる。つまりはシェスカルにも迷惑を掛けてしまう。
「どういうつもりなの……ディノークスを潰す一派だったってこと? でもこれが公になれば、エルドさんだってただじゃすまないはずだわ……」
どう考えても答えが出てこない。
規律の厳しい帝都騎士団において、団長にもなろうかという人物が不貞など言語道断だろう。人生転落のシナリオが待ち受けているはずだ。それをエルドレッドが望んでいるとは思えない。
「本当に……なんなの??」
答えの出ぬまま、その日の夜は更けていった。
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