鳰下町ミュージアム-エピローグ3

 瀬古逸嘉が消えたオフィスに剣女は残された。彼はソファに戻ると脱力したように座り、顔を覆った。


「……ほら吹きが」


 十本の指の先がぎゅ、と額を押さえつける。この身体は彼自身のものではなく、主たる天のものだ。故に自分の体にいくら触れたところでその実感はなく、柔らかくも冷えた生地をずっと練っているような感触だった。通常、人がモノに触れるというアクションを起こす際は、触る、触れるという二つの事象が同一のものと認識されつつも実行される。だが剣女の場合はそうではない。自分の意思で手を身体に当てたとしても、触るという自覚はあっても、触れていることを自覚することができない。言い換えれば、血の通っていない部位に触った際に起こる認識の異常、とでもいうべきものだ。

 故に彼は、痛みを認識できない。彼が顔を歪ませるときは、借りている主の身を案じているときだけだ。自分の戦いのために天が痛みを我慢するようなことがあってはならない。その決意が、彼を縛り付けている。この肉体はなるべく無傷に扱わねば、と。いくら不死とは言え、痛いものは、痛いのだから、と。


(だが奴は確実に何かを知っている……私に関する、何かを)


 しかし天を何よりも優先してきた剣女が、今は自分自身のことについて思い悩んでいたのだった。


(私の記憶にあるのは、天と共に歩んできた土の道と天を探し続けた永年の変遷。私が生まれた頃には既に天と共にあり、ずっと天のために在り続けてきた。だが)


 思い出す。身に覚えのない、身に覚えのありすぎる誰かの記憶。


 ———京八逆流。


 この剣術の名、そして教義は、確実に自分が教えられたものだった。


 大雨に打たれながらも錆びついた刀を拾い、洞窟で死を待っていた大男に教えを乞うた。

 何年も細い腕で棒を振り続けたあの日々は、確かに己の記憶だと自認できる。


(……さすれば、アレは私自身が、人間だったときの)


 自分の始まりは怪異ではなく人間だったとでも言うのか。瀬古が言った、「怪異である前に人間だ」という言葉は、真実なのか。


(では、近衛槙はなんだ。私と全く同じ動きをした奴はなんだ)


 剣女と近衛槙が、同じ流派の剣術を使ったことは偶然とは言えない。彼は一度として剣を習ったと口にしたことがないし、その素振りも見せなかった。もし経験があったとしても、何度も訪れた危機でも彼は危うい真似はしなかったはずだ。

 近衛が見せた黒く濁った眼も、彼自身の目ではない。あれが近衛槙の本性だとは言い難い。


(奴は、部屋に到達するまでに出逢った怪異の全てを、自分で倒した。そうとしか考えられない)


 近衛槙でないものが近衛槙の中に潜んでいるのは……明らかだ。


(……平穏、とは言えないな。これでは)


 剣女は背もたれに身を任せ、ハエの飛ぶ天井のライトを眺めた。眩しいが、眩しくない。細い目で無機質な壁を見上げ続ける。自分自身を俯瞰するように。


(私たちは拾われた。あの男に)


 回想する。

 黒い夜、黒い道を、赤黒いモノで塗られた死装束を着て逃げていた。何も光が見えない暗夜の奥底から、瀬古逸嘉は現れたのだ。男は猫でも拾うかのような微笑みで身体を持ち上げ、この家へ運び込んだのだ。


『安心したまえ。ここは君たちの家だ!』


 理由も言わず居場所を与え、何もしなくても生きる術をも与え続けた。それが無償の慈悲故でないことは最初から理解していた。だからいつかここを出ようと考えていたはずだった。だが、それでも享受するしかなかった。これにしがみつくしかなかったのだ。

 彼と彼女は、一度掴んだ静かな日々を、手放す理由がなかったのだ。

 それが半年前。最近のようで、遠い記憶でもある。


(……瀬古の企みは、天の平穏を乱すものかもしれない。エイダも、近衛槙も、彼に利用されている。私は、アレを信用することができない)


 いつか戦うときが、来るかもしれない。天の命を弄ぶ行いをあの男がするのならば。

 エイダ。近衛槙。もし道が違えば、彼らとも———。


『そんな悲しいこと、考えちゃダメ』


 突如、主の声が響いて彼は背を正した。


「っ……天」

『エイダと近衛くんは、いい人。だから戦わないといけないだなんて、思わないで』

「……しかし」


 影を落とす。机上に降ろされた黒い自分の姿を彼は見た。


「私は、出逢うもの全てが敵に見える」


 天は何も返さない。

 だが仮初の身体に、後ろから抱きしめられるような感覚がした。


『苦しくない』

「……」

『あなただって苦しくない。わたしたちはもっと、楽に生きていいと思う』

「そんなことは」

『……ねえ』


 天はぼそりと囁く。


『あの建物で戦った時、すごく無理してたよね』


 彼は何も言い返せなかった。

 外法とは、剣である剣女自身の人格を刃に移し替えて放つ技だ。故に使用時、肉体には天の意識しか残らない。彼女一人で戦わなくてはならない時間が僅かながら存在してしまうということもあったはずだった。


 だが今回、外法を使っても剣女は、天に戻らなかった。


『わたしに戦わせたくなかった、んでしょ』

「……主の剣として当然だ」

『今までは戻ってたのに、どうして?』

「私が怪我をすれば天も傷つく。私が力を使えばその分天の負担になる。主を、痛めつける真似はしたくない」

『……あなたはもっと、自分のことを大切にするべき』


 彼はぽかん、と口が開いた。


『わたしたちに上下関係なんてない。だって家族でしょ? できるならわたしも、あなたの役に立ちたいよ』

「そんなことは言わせられない! 私の使命は主を守ることだけだ!」

『強情者』

「は……!?」


 がつんと殴られるような言葉の握りこぶしを喰らわされた気分だった。剣女はつい立ち上がってしまう。


『そんなのだから自分のことでうじうじ悩むのっ』

「……言葉が強くないか、主」

『確かに瀬古さんは悪い人かもしれないけど、それにまんまと引っかかるわたしたちでもないでしょ。だって強いんだから。わたしたちは』

「いや思い上がりだそれは。現に今回だって苦戦して……」

『それはあなたが意地張ってわたしと交代しようとしなかったからでしょ』

「はあ!?」


 剣女、流石に声を荒げる。


「何を言うかと思えば……大体主が出てきたところでまともに剣も触れないだろう!?」

『海に行ったときはわたしがトドメ刺したよ』

「物は言いようだな!? それまで戦い続けたのは私だが!」

『でも最後はほとんど疲れてたでしょ。だからわたしが変わって……』

「それとこれとは話が違う!」


『……わたしだってもう少し戦えるもん』


 突如天がいじけるような声を発した。剣女は、血の気が引いた。


「いや違う。いや、違わない。確かに天も強いには、強い。だが私と比べたらの話であって」


 天は何も言わない。


「天……?」


 何も、返してくれなかった。


「いや……すまない。私が悪かった。だから、黙るのは、やめてくれないか。私もそんなつもりでは……」


 その後、夜が明けるまで剣女は一人、誰もいない部屋で土下座し続けたとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る