鳰下町ミュージアム-エピローグ2

 事務所の暖房はつかない。だから夜は各々が着込んで寒さをしのぐ必要がある。僕は布を一枚肩にかけ、今回のレポートを見返していた。

 一応お話屋の活動記録として貰いはしたが、本当は必要のないものだ。

 今回の怪異、「反転する鳥籠」は蒐集しなかった。別にしてもよかったのだが、僕はあの時拒否したのだ。人工的な怪異など集めるに値しない……というのは半ば言い訳かもしれない。大場さんの置き土産を素直に受け取るというのが、僕にとっては許容できない嫌がらせだと感じたからだ。


 あの男の形見など、欲しくはない。

 互いに悪感情を抱いていた者同士がどうして死後も繋がりを持たなければならないのか。

 文章中の「大場 廉之助」の記述を見るたびに溜息が漏れる。

 僕は本当に、あの先輩が苦手だったのだな。


 そう一人で耽っていたところにガチャリと聞こえ、扉の奥にパジャマに着替えた天が立っているのを発見した。

 壁の時計の二本の針は共に真上を指している。


「眠れないのかい。今日は冷え込むから、早めに布団に入りなさい。薄手しか着てないんだから」


 天は無言だった。

 元々温度の変化を感じにくい子だ。本人としては気にはしていないかもしれないが、知らない間に風邪を引くということもある。僕としては自分の身体を、もう少し大切にしてほしいと思っている。


「それにしても、寝る前でも帽子は被るんだね」


 レポートをしまいつつ語り掛けるも天は返さない。

 ふと気になり彼女の様子を窺うと、鍔の影から切っ先のような視線を浴びせられているのに気づいた。


「……ああ、『君』か」


 彼女……いや、彼は部屋の中へ入り、そのまま気丈にデスクの前まで進んだ。


「珍しいね。ここで君が起きていることなど無いのに。天はもう寝たのかい」

「ああ」

「そうかい」


 前に立つ剣士の顔を眺める。無機質な顔だ。僕じゃ、その感情も読み取れない。近衛槙の前ではもう少し怒ったような顔も見せてくれると聞くが、果たして僕がそれを見る機会は訪れるのだろうか。


「僕と、お話がしたいのかな」

「そうだな。色々と」

「そうか」


 僕はガララ、と立ち上がった。


「コーヒーでも淹れよう」



 傷だらけの黒いレザーソファが二つ。それぞれに僕らは座り、マグカップから昇る湯気に当たっていた。まだ熱いので互いに手をつけていない。


「らしくないな。瀬古」


 最初に話し出したのは意外にも彼の方だった。


「だろうね。僕もまだ、気持ちの整理がついていないよ。不思議なことに」

「人の生き死に一喜一憂するとは思わなかったがな。やはり知り合いとなると、違うものか」

「ああ。何かを無くす悲しみとは思いがけないほどにのしかかるものさ。無くしたのが心から嫌っていたものだとしても、身近にあったならばひとしおだね」


 マグカップの白い表面に指を当てる。まだ熱い。熱いが、指を離せない。陶器の光沢が汚く目に映る。


「辛いのか」

「全然とは言わないさ」


 ヒリヒリとした人差し指を親指で撫で、彼の目を見て言う。


「人と人の関係は、人と怪異の反証構図以上に雑なものだ。表に出すことは無かったが、僕らは互いに嫌いあっていた。面倒なのはこれが憎しみなどではなく、ただ『嫌い』というだけだったということさ。だけど大場は、自分の感情を自分で勘違いしてしまった。単純な嫌悪を、憎しみと履き違えてしまったことが、あの悲劇の始まりだったわけだ」

「嫌っていたのに、辛さを感じているのか」


 彼の疑問も当然だ。人間の感情のほんの僅かな機微。負の感情の元になったものが消えたところで心が切り替わるわけもなく、また違った負債が胸にのしかかるだけだ。全部解決、めでたしめでたしとは言えないのが、僕たちの苦しいお話なんだ。


「わかりやすく言えば、失って初めて気づくこともあるということさ。僕の場合も、あの人が死んだとわかったところで気分は晴れなかったさ。状況が、状況だからね」


 部屋中にコーヒーの香りが充満する。よくない匂いだ。上手く、豆を挽けなかったらしい。


「知らない間に昔馴染みの恨みを買っていて、実際に行動に移されようとしていた。でも達成はできず、僕はその結果を知らされただけ。辛い、というのは語弊があったな。今の僕は、色んなものが絡み合っているんだよ。後悔、怒り、悲しみ、いい様だ……こいつら全てが一つとなって、無力感に打ちひしがれるようになる」

「……そうか。よくわからん」

「聞いておいてそれかい」


 彼はカップを手に取り、縁に口をつけた。そして一言、

「不味いな」

と。


 僕は肩ごと上下させて呆れ笑いを演じた。


「不味くて正解なんだよ。気持ちも上がっていない時は、苦い物を飲むに限る。飲む自傷ってね。砂糖持ってこようか」

「……いい」


 彼は二口めを啜る。


「本当にこれは、濁っていて、苦い、な」

「ああ。汚いものが無性に欲しくなる時もあるってことさ」


 机の上にカップを戻すと彼は流れるままに発した。


「本当の大場とはどんな人物だったのだ」

「興味あるのかい」

「少しな」

「つまらない話になるけどね」


 僕も濁った水を頂いた。頭も悪い具合に冷め醒めとしたところで語ることにした。


「大場さんとは同じ研究室の先輩後輩の仲だったんだ。あそこは人気が無くてね、研究内容も地味だということもあって所属するのは簡単だった。あそこで僕たちは、ありとあらゆる古典を集めていたんだ」


 彼は「古典?」と首を傾げる。


「ああ、昔の物語、と言った方がいいかな。世界中の多種多様なストーリーを集め、保存し、後世に伝えていく……端的に言えば、『アーカイブ化』というやつさ。テレビもインターネットもある現在で、世の物語は全て掘り起こされてしまったと思われがちだが、そうでないものもある。文書でなく口伝として残されていたり、反対に新しく生まれたものであったりと、眠ったままのお話が世界にはたくさんあったわけだ」

「貴様の身の上話は聞いていないが」

「まあ聞いてくれよ。大場さんもそこの人だったんだが、これがかなりがめつい人でね。出逢う度にこれを買ったあそこに行った、お前は行ったことないだろうと自慢話をするような人だった。学生からの人気も強い男が、どうしてこんな地味な研究室に腰を据えているんだろうと思っていたんだが、今思えば何も考えていなかったのかもしれないね。ただ好きに論文を書けば簡単に卒業できると思い込んでいたんだろう。その時点で僕とは相いれないと思っていたが、これが本当に何かとよく誘う人でね。暇だからゲームに付き合えとか、呑みに行くぞ、とか。最初こそ嫌々ながら聞いてやっていたんだが、段々と彼も悪い人間ではないのがわかってね。大場さんは人の話をよく聞くんだ。僕の当時の夢も、笑うことなく真摯に聞いてくれたものさ。印象もひっくり返り僕もそれとなく心を開くようになっていった。それでも嫌いであることに変わりはなかったがね」

「どういったところが嫌いになったんだ」

「ええー? そりゃ……全部だよ。どこがどうとかじゃなくてね。いい人ではあるが、何となく嫌いだった。この『何となく』が全てだよ。いい人間ではある。だが、そうだな。僕と生まれ育ってきた環境があまりに違いすぎる。言葉の節々から、どれほど恵まれた環境で生きてきたかはわかるものだからね。良い所の生まれで、愛されて育てられ、何不自由なくここまで来た……僕とは大違いだよ。だから、僕の言う嫌いは、『僻み』だよ。若者特有のね。何かと周りと自分をよく比べるお年頃だったしさ。それを僕は『何となく』と形容した。よくわからなかったものを、わからないままのものとして放っておいた。それが、何年経っても変わらなかったおかげで、大場さんとの関係も停滞したのさ」


 大場が死ぬ前。恐らく二年ほど前の彼を思い出す。

 彼は学生時代からちっとも変わっていなかった。僕にコレクションを見せびらかし、豪快に笑い声を上げるだけの人間。そしてそれに合わせるだけの僕。

 大場の、僕に対する恨みつらみも変わらないものだとしたら、あの男はとんだポーカーフェイスだ。僕も嫌いだったが、あの人はそれ以上に嫌いだったのだ。それを互いに知らないで、交渉術ばかりが身について、子どもの嫉妬心を抱えながら身体だけが老けていってしまったのだ。


 だからこそ。もしもを想わずにはいられない。僕が自分の「嫌い」の理由を整理して大場さんに向き直していれば、彼は僕のように怪異に傾倒せず、ただうざいだけの先輩でありつづけてくれたのだろうか。


「気づけばこの通り。僕らの関係は何の結末も得られないまま、雛鳥たちに啄まれたというわけさ。世は常に流転するとは言うが、僕らは本当に何も変わらなかった。今も、変わってない。当時の感情の理由を紐解けたところで、もう遅かったのさ」


 結局は僕の身の上話にしかならなかったが、帽子を被った子は最後までお話を聞いてくれた。


「佐々木瑠璃の件もある。死んだ後でも変えられる関係性はある」

「あれは特例だよ。大場さんは、その例にはそぐわない」


 きっと彼は案じてくれたのだろう。今からでもまだやり直せることはあるはずだと。再生できた関係性を身をもって体験し、目にもした彼だからこそ言うことが出来る。だがそれでも、僕たちは無理なんだ。死んだ人間と生きている人間の関係性は止まったままなんだ。


「人の関係と言うのは双方が互いに行動を起こすことでしか変化しない。怪異に復讐された大場さんは、もうこの世のどこにもいない。幽霊になったかどうかも、定かではないのだからね」


 仮に霊となって彷徨っているとしても、僕は探さないだろう。

 ある意味では贖罪だ。この経験を、僕はいつまでも持っておく必要がある。

 ああ、また一つ。やらかしを増やしてしまったな。


「とまあ、こんな具合のつまらない話さ。もういいだろ?」


 僕はコーヒーを一気に飲み干し、からりと机に置いた。しかし彼は顔も変えずに見つめている。まだ、話の続きを待っているかのように。


「……僕からはこれ以上何も言うことはないよ。大場のことを深堀しても君には何の得にもならない。それとも……」


 頭の中の渦が静かになったところで今度は僕から切り出した。


「大場さんの話を通して、僕のことを見定めようとしていたのかな」


 彼は何も返さない。しかしマグカップの取っ手を持ち上げたということは、僅かながらも「切り替えよう」という意識が現れたのだろう。

 先ほどから話していて、彼はずっと話の中心を大場に定めようとしていたが、話を聞く素振りはまるで監査官のそれだった。ずっと大場の話ではなく、大場を語る僕の様子を観察しているようだった。

 だからこそ僕はずっと身の上話をしてあげたわけなのだが。


「貴様といい近衛槙といい、人への見方が的を射すぎている。現代人はみなそうなのか?」

「そんなわけあるかい。仕事柄そうなってしまったというだけだよ。近衛君もさ。彼と僕は、似た者同士だからね」

「……聞かれたら体調崩すぞ」

「確かに。彼はまだ僕を嫌ってそうだからね」


 そんな冗談を彼は訝しむように聞いていた。カップの縁を口に当て、しばらく啜る素振りもしないままで。


「んで、今更どうして僕相手に観察なんてしたんだい」


 彼はカップを降ろし、上唇を人差し指で拭う。置かれたカップの水位は全く変化していなかった。


「私も天も、知らないことが多い。この世に生きる人などまるで掴めん。貴様にしてもそうだ。全く動機が読めない。貴様はなぜ、お話屋など開いて自ら怪異にかかわるのだ」

「……ずっと言ってるだろ? 僕は『話』を売りさばく仕事をしてるんだ。噂、虚構、真実……求める者がいるなら提供する。それが僕の商売だよ」

「それ以前の問題だ。なぜ、そんなものに手をつけたのか。最初の理由を私たちは聞いていない」


 眼に力が入っている。まるで男のような視線が、僕を問い詰めようと突き刺しに来ている。


「天ちゃんは寝ているのかい」

「さっきも言ったぞ」


 空になったカップの底の汚れを眺める。もう一度注ぎに行こうかとも思ったが、後ろから刺されてしまいそうで諦めた。


「君は、『私たちは知らない』と言った。その上で僕に教えろと言う。おかしな話だ。わざわざ天ちゃんには秘密にしようとしているみたいだ。彼女に不都合な事実があると既に確信している」


 彼の目はより一層険しくなる。


「全ては語らないよ。だがこれだけ伝えておく。大場さんは、僕の真似をすることで出し抜こうとした。僕は蒐集屋。特に、ありとあらゆる怪異を集めることに、今は執心している。これが今の動機だよ」

「納得できるか」

「しなくてもいい。僕の事を知らずとも、君たちはこの家で眠ることができる。だからあまり、深追いしないでおくれ」


 言い切り、カップを持ち上げキッチンに向かう。後ろから、

「私たちは、商材か。貴様がその気になればすぐに売ってしまえる奴隷か」

と、敵意を向けられた。


 僕は溜息をつく。


「君たちは売り物なんかじゃない。だって、人間だろう?」

「怪異だ」

「怪異である前に人間だ」


 蛇口を開くことなくカップを放っておく。


「……人間をそう易々と、家にあげて匿うものか」


 彼は何度も言い返そうと試みるが段々と声に覇気が無くなっていくようだった。


「失礼な。現代人を甘く見ちゃいけない。君たちが思うより遥かに、今の時代は甘いものだよ」


 机の上に残されたコーヒーはすっかり温くなっていた。手を付けようとしない彼に、「片付けていいかい」と聞く。彼は無言だったが、僕は勝手に取り上げた。


「アイツもか」


 瞬間、冷たい空気を肌に感じた。きっと夜も深いからだろうと決めつけたかったが、彼は許してはくれなさそうだ。


「近衛槙をここに呼び入れたのも、そうなのか」

「……どういうことかな」


 彼は立ち上がった。


「アイツの物書きとしての能力を買ったと貴様は言う。だがそれは事実か? 奴がいなくとも貴様の業務は十分に成り立つ。今までそうだったろう。近衛槙を迎え入れて、貴様のその商売とやらに変化はあったのか」

「……」


 随分、痛い所を突く。


「私たちも、エイダも。共に怪異でもある存在だ。その力を見込んで貴様は手元に置いているんだろ」

「……ミュージアムで、何か聞いたかい」

「怪異の一人から聞いた。近衛槙も、例外ではないと。あれは一体どういう意味だ。いやそれ以上に」


 僕の目の前に詰め寄る。喉元に刃でも押されていそうな息苦しさだった。


?」


「……」

「あの時、近衛槙は怪異を殺した。剣で切り落としたのだ。それにあの目は通常の奴の目ではなかった。とても薄暗く……私たちもよく知る、飢えたヒトの目だった。何よりあの動き、見覚えがある。私が忘れていた剣術———京八逆流。どう考えてもアレは近衛槙ではなかった。明らかに、あの中に誰かがいる。貴様の動向から察するに———だな」

「…………」


 うん、やっぱりそうだったのか。


「答えろ瀬古! 近衛の中にいるのは……私に縁ある者か!?」


 おかしな動きだと思っていたが、そうか。

 何かの拍子に一瞬だけ……起きたのか。


「……はは」


 感知できなかった。だが、これが本当だとするなら僕は嗤うしかない。


「なぜ笑う、瀬古」

「いや何。やっと物語が、動いてくれたかと思ってね」

「やはり……知っているんだな。近衛槙は一体何者だ!」


 僕は彼……もとい、彼女の肩を叩き部屋のドアへ歩く。暗い暗い道に向かう中、僕は返した。


「あの雨の夜。意味もなく連れ戻されるしかなかった君たちを掬い上げたのと同じさ。近衛槙もまた、僕の大切な家族だよ」


 僕は寝室に辿り着き、眠った。

 とても静かで深い、良き夜だった。

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