鳰下町ミュージアム-10 語/夢

「存在しないものに、『存在していない』という概念を付与する———行動としては名前をつけるのと同義ではあるが、いやはや。よくもまあそんなことを思いついたものだよ」


 隣に並んで同じ数式を眺める男性。突然の登場に一瞬呆気に取られたが、落ち着いて彼に向き直した。


「どの国の宗教観を比較しても、やはりインドや日本。仏教に通ずる国の考え方は面白い。宇宙の起源は「無」であるという説も、「無」を受け入れる土壌が無ければ誕生することすらなかっただろう。それに何より、万象に対する理解がより深まった。無いという状況を前提に物事を考えることでどれほどの辻褄が合うようになったか」


 男は淡々と、かつ嬉々として語り続けていた。ただの話好きか、何らかの企みを持っているか。なんとか見破れないものかと見ていたところで男が顔を合わせてきた。


「君は、どう思う?」

「……なかなか興味深いとは、思いますけど」

「どの辺りがかね?」


 咄嗟に口から出た適当な返事とは反対に男はぐぐいと距離を縮めてくる。目を輝かせて、どうにもこちら側の意見に期待を寄せているようだった。


「……一筋縄ではいかなそうな、辺りでしょうか」


 ……どう聞いてもそれっぽいだけの返答をしてしまったらしい。数秒、微妙な雰囲気の沈黙が訪れる。

 気分を害してしまっただろうか。恐る恐る口を開いて次に思いついた言い訳を語ってみようとしたところで、男は「ふはは!」と面白がり表情を柔らかくさせた。


「いや失敬。学生にする話にしてはかなり形而上学的すぎた」


 髪を掻いて申し訳なさそうに笑う男性はポケットから一枚の名刺を取り出した。


「ここの代表の、大場 廉之助だ。どうぞよろしく。見ての通り、豪勢な館ではあるんだが客足が少なくてね。ついつい話しかけてしまった。年老いてしまうと若者に迷惑をかけてしまうな」


 物腰柔らかにかしこまるその姿勢が意外に思えた。事前の情報からプライドの高い貴族か堅苦しい保守的な人間が出てくるかと考えていたが、どうにもこの男は、所謂「金持ちらしさ」が抜けきらないものの、それでも謙虚な姿勢を見せようとしているようだった。


「確かお連れの婦人がもう二方いらっしゃったはずだが、恐らく食事処かな?」

「そうですね。まだ何かしら、食べているのかも」

「ははは、きっと私が苦肉の策で思いついた限定メニューにでも惹かれたのだろう」


 穏やかに微笑まれるも、自分の中に僅かな罪悪感が芽生えてしまう。


「いや、そんなことは……」

「いいのだよ。この美術館にある全ての物は、平等に提供されるべきものだ。それが絵画でも彫刻でも、パフェでも変わりはない。どれか一つでも目に入れたいと思うことも、立派な動機だ」


 そう語り大場廉之助はホールの中央にある休憩用の椅子に腰をかけた。つられるままにその隣に座る。彼はゆったりと、細めた目でガラスの向こうの展示物を眺め続けていた。

 その横顔を見て、一つ、質問を投げかける。


「瀬古さんとは、どのような関係なんですか」


 男は顔色一つ変えず、微笑んだまま両手の指を合わせた。


「ああ、やはり。君が」

「まあ、そんなところです」


 ふふ、と首を上下に動かし、小さく顔を傾かせてきた。


「私のことは最初から知っていたわけか」

「はい」

「そうかそうか。確かに、事前調査というのは大事だ」

「それもそうですが……」


 ポケットからチケットの半券を取り出す。


「あの、商店街でくじ引きを開いていたのはあなたですよね」

「ほう? どうしてそう思ったのかね」


 試すような口調で頷き返される。


「話し方とか、仕草とか、ですかね。後は、瀬古さんの反応」

「それだけでわかるのかね! 大したものだ。顔は変えていたつもりだったが」

「つまり意図があって俺たちを呼び込んだということになります。決して偶然じゃない」


 整理するように話す自分とは対照的に彼は愉快そうに膝を打ち続けた。


「流石。瀬古君が呼び込んだだけのことはある。そうだね、彼との関係を話そう」


 大場は立ち上がり、後ろで手を組みながら話し始めた。


「彼は大学の後輩でね。共に国内の伝承について研究していた。瀬古君は良き研究仲間だったよ」


 周囲に点在している展示物を回し見ながら大場は思い出話を語る。あたかも昔話を聞かせるかのように。


「我々は、夢を持っていた。若者らしく、煌びやかな未来を夢見ていた。だから———日々、切磋琢磨したものさ。まあそれは現実にはならなかったのだがね……いや、瀬古君はある意味では叶えていたかもしれないな」

「瀬古さんの夢、ですか」

「ああ———知りたいかね」


 振り向く大場。微笑し、自分のことのように瀬古さんのかつての夢を口にした。


「紙芝居屋になりたかったそうだよ」

「……紙芝居?」

「ああ。彼は子供好きでね。面白おかしい話を子供たちに語り聞かせていくのが、彼の夢だった。だから彼は、昔話を集めることに執心していたのさ」


 ……お話屋。

 全国各地から在りえざる真実の話を集める商売。その起源は、子どものため。


「どうして瀬古さんは、そうなったのでしょうか」

「それは私の口から言うのは憚られるな。是非本人に聞いてみてくれたまえ」


 そして再び隣に座ってくる。


「確か……近衛槙君、だったか。どうかね。彼の手伝いをしてその所感は」

「はは……大変なことばかりです。いきなり無理難題をふっかけられることもありますし」

「だろうねえ。彼は、ああ見えて自分の仕事にはストイックな人間だ。例え日の浅い部下であっても、決して怠惰を働くことなど許さないだろう」


 すると彼は背をまるめ、足に肘をついて頬を支えた。先ほどまでの館長らしい大人の雰囲気から一変、だらしない姿勢を見せた。そして次に、息を吐いた。


「羨ましい限りだ」

「……大場さん?」

「ああ、いや。うん。結果として彼は紙芝居屋になるという夢を自ら断った。しかしそれと代わるように、『お話屋』という彼の夢に近しい道を選んだ。学生時代から、よく全国各地を飛び回るような男だったから、当然の帰結さ。ああ、きっと天職なのだろう———物語を『蒐集』するという行為そのものが、瀬古君の先天的な起源なのかもしれない。あの男と話す度、彼はかつての夢のことを『若気の至り』だとか『幼稚な夢物語』だとか言って手を振っていたが、叶えているんだ。自分のしたいことと能力を確かに合致させ、これ以上ない幸せを得ている」


 片手で顔を覆い、油を拭うかのように力強く擦りつけている。その声色はところどころ震えていた。らしくないなと言い聞かせ、彼は白髪混じりの髪を掻いた。


「本当に、私よりも先に行ってしまった」

「……大場さん、不躾でなければ、なんですけど」


 こんなこと、聞くべきじゃない。今すぐやめろと内心ブレーキをかけた。

 しかし、物の本質を知らずにはいられないという自分の性が、強引に口を開かせていた。


「大場さんの昔の夢って、なんだったんですか」


 彼は、見向きもしなかった。しかし静かに、顔を覆っていた指の隙間から目を覗かせ、ぼう、と。前方の空間を見据えながら答えたのだった。


「自由だ」


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