海の玉並べ-エピローグ 目覚め/白
「……ぶふっ!?」
肺に入った海水を吹き出す。
ように起き上がった。
「……ん、あれ」
そして目に飛び込んできた背景に違和感を覚える。
明らかに部屋だった。さっきまで嵐の止まない絶海の孤島にいたはずなのに。
「ああ、槙君起きた?」
声のした方を見ると、瀬古さんが布団をのそのそと片付けていた。まるで何事もなかったかのように。本当に何もなく、一晩明けたかのように。
「瀬古さん」
「だいぶうなされてたけど大丈夫かい?」
軽い雰囲気で話しかけてくる瀬古さんに面食らう。絶対に、そんな風に落ち着いていられるわけがなかったのに。
「……瀬古さん俺あれからどうなって!?」
焦りながら聞くとキョトンとした顔で返された。
「あれからって?」
「いやだから、俺……昨日、結局帰されたのに戻ってきて、そして海に……」
「なーに言ってんだ。変な夢見てたんじゃないかい?」
冗談めかしてそんなことを言う瀬古さんを見て、何かがおかしいことに気づく。
「夢。ですか」
「夢でしょ。第一、昨晩はこの部屋でずっと寝てたじゃないか」
その発言でますます頭が混乱していった。
「今日って、何日ですか」
「ええ? 今日は———」
伝えられたその日にちは、確かに昨日だったはずのものだった。
扉が叩かれ、瀬古さんが「どーぞ」と答えた。すると天が入ってくる。既に着替えは済んでいて、赤ジャージとカラフルな帽子を合わせたいつもの恰好だった。当然、例の如く帽子は深く被りすぎて目元が見えていない。
「おはようございます」
「おはよう天ちゃーん! 今日もきゃーわいーねー!」
天は抱き着こうとする瀬古さんの鳩尾を刀の柄で打ち込んだ。たちまち瀬古さんは過呼吸を起こして倒れる。
「おはよう、天」
気を取り直して自分も挨拶をしてみる。しかしあまりいい反応は返ってきそうになかった。彼女は目を泳がせている。
「……おはよう、」
天は小声でそう言ったように思う。一語一句聞こえたわけでなく、口の動きでそう見えたのだ。
しかしこの様子を見るに。やっぱり俺が経験したはずのあの島での出来事は夢だったのではないだろうか。天がよそよそしいのはきっと砂浜での出来事を引っ張ったままだからだ。俺が天を怒らせるようなことを言ってしまったあのことを。あの戦いが夢だった以上、俺と天の喧嘩は何も解決していないのだ。
「お目覚めですか? どうでしょう、外に出て朝食というのは。今日はとてもよく晴れておりますよ」
伊佐美利津子さんが部屋の前にやってきてそう伝えた。窓の方を見てみると、これ以上ない青空が広がっているのが見えた。
「……」
あの夢で体験したもう一つの今日も、こんな感じの天気だった。そのときはあまりにも快晴すぎて逆に忌々しかった。天がいなくなったから、雲が晴れたように思えたから。でも今は違う。天は今日もちゃんと生きているし、一緒に外の風景を眺めている。
なら、それでいいかなと納得した。
部屋を出て全員で外へ向かっていると資料室の入り口に通りかかる。
「あれ」
壁に掛けられていたはずの絵画が変わっていた。昨日までは海から現れた黒い神が人々を連れ去るという恐ろしい絵が飾られていたはずだったが、今そこにはどこまでも澄み切った青空と海を描いた風景画があったのだった。
「あの、これは」
「昨日お話した通りの、昔話の絵ですよ?」
女将はどうして同じことを聞くのかというように返答した。
「だって昨日のは……あれ」
そういえば、昨夜見た絵も、こんな感じだった気がする。
「有りえない話だよねえ、あまりに天気がよくて兵士が戦闘をやめたって話。いい御伽噺だけど、拍子抜けだ」
後ろで瀬古さんが呆れるように笑っていた。
冬の朝は寒いはずなのに今日だけは暖かった。ピクニックなのかキャンプなのかバーベキューなのかよくわからない朝食だった。次々に運ばれる新鮮な野菜に魚類。それらを焼いて次々に口に運んでいく。どう考えても夕飯のソレ。女将さんは嬉々として食材を投入するので収拾つかず、自分は途中で切り上げさせてもらった。一方で天は最後まで追加されていく料理を平らげ、ケロッとしていた。瀬古さんは途中で倒れた。
帰るのは夕方。それまで好きなように過ごすと良い。とロビーで寝転んでいる瀬古さんは手を振った。と言っても、結局海で散歩するくらいしかやることがなかったのだった。
俺は欠伸をしながら海へ向かっていると、天もその後ろに着いてきていた。
昨日の曇天で灰色に濁った砂浜と、今日の晴天で一面白く染まった砂浜。違う世界のようで、新鮮な気持ちになることができた。潮の香り。草木と陽の香り。ただ歩いているだけで有意義な休日を過ごせている気持ちになれた。それは俺だけでなく天も同じらしい。
突然前に走り始めた天。軽い足取りで進んでいた彼女はしかし、砂に足を掬われて転びそうになった。一応持ち直したものの、見ていて危なっかしかった。
「そんな急いだら危ないよ」
そう背中に呼びかけると天は振り向いた。少し走ったせいで帽子がずれ、目元が露わになっていた。ちょうど太陽は後方にあり、彼女の顔は白く照らされていたのだった。
———見返り美人ってこのことを言うのか。
この言葉を作った人って天才だなと考えていると、天はこっちに戻ってくる。そして気づいたように帽子を被り直した。
大体一メートルの距離で向かい合う。天は少しソワソワしていて、何度も帽子の鍔を掴んでは下に引っ張っていた。それが十秒くらい続き、先に口を開いたのは、
「天」「近衛さん」
どっちかわからなかった。
「ああ、先に言っていいよ」
天は頷いた。
話すことは大体わかる。きっと昨日のことだ。天の、自然や命に対する価値観の話だろう。彼女と俺の中にあるその感覚はやっぱり違うし、完全に理解するのも難しいはずだ。あの夢で少しはわかりあえた気はしたけれど、それでも夢は夢だ。俺にとって都合のいい絵空事だ。
きっとまた、問い詰められるんだろう。俺はどう答えればいいのか、すぐその場で思いつける自信がなかった。
そして天は口を開く。
「あの、夢、見た……よね」
「……え?」
しずしずと顔を上げ、天は声を発しようとする。
「多分、同じ、夢」
「……あの、島で一緒に」
「そう」
「神様と戦った」
「うん」
「……まじか」
天が安堵したように息を吐いた。一方の俺は気が気でなかった。
「いやーちょっと待って?……え、今日って何日?」
「……昨日と同じ日のはず」
「だよなあ……え、ホントに!? じゃああれは、別に夢ってわけじゃなくて……いやわけわかんないな! 天が急に死んだと思ったら、結果あんなデカいやつと戦うことになるなんて。それに昨日と今日が同じ日ってちょっと変な感覚するし!」
自分の中の錘が外れて解放される感じがする。笑いとも呆れともとれるような声がどんどん零れていく。そして俺のその言葉に天は小さく笑いながら頷き続けていた。
砂浜に二人して座る。履物が汚れてしまうのも気にせずに。いつの間にか靴の中に入っていた砂もかえって心地よかった。歩いたという実感が持てたからだ。
何度も寄ってくる小さな波。それが重複することで奏でられる自然の音。季節はまだまだ冬の真っ盛りのはずなのにこんな天候はありえない。まるで春のような。上から花びらでも降ってきそうな気温だった。
ふと砂を掴んで持ち上げる。すると指の隙間からさらさらと音を立てて落ちていった。
「命、ね」
呟く。天が頭を傾ける。
「この砂の一粒一粒にも、ちゃんと命は宿ってるんだ」
天は水平線を眺めつつゆっくりと頷いた。
「なんかこうして……砂の上に座ってると申し訳なくなる気がする」
「別に怒ってないと思うよ、この子たちも」
「どうして?」
「強いから。どんなに踏まれても、形を変えずにありつづけるから」
柔らかい声色だった。語り掛けるように。撫でるように地面に触れている。
「なんか世界広がるな。天と話してると」
「え?」
「見方が変わるというか。この、今見てる景色の」
目の前にある海と空。きっと、何年も同じ風景だったはずだ。この辺りにずっと住んでいたらきっとこの景色が当たり前のものになりすぎてしまう。ここにも無数の命があるんだということを意識しないと、ただの凡庸なものにしか見えなくなってしまう。逆に命があると思い込むとそれはそれで途方もなくなってしまいそうだけれど。
「神様、確かにいたんだよな」
「……うん。いた」
「殺しちゃったのかな。俺たち」
しばらく無言の時間が訪れた。
「宿にあったあの絵。元々は神様が描かれてたのに、変わってた。まるで最初から、神様なんかいなかったみたいに」
「うん」
「神様がいるってことが教訓になるんだって女将さん言ってたのに。それも無くなった」
「……うん」
「よかったのかな、これで」
自分たちが生き残ることで精いっぱいだった。そのために、この町を見守り続けていたはずに神様を消してしまった。
もう終わってしまったことは仕方がない。ただそれでも、あの絵が変わっていたのを見たとき、罪悪感に襲われてしまったのも事実だった。
「わたしは……後悔、してない」
項垂れかけていた俺に代わって、芯を通すように天は言い返した。
「命を見る事と、自分が生きる事は、関係しないから。もし生きる上で誰かを殺めなきゃいけなくなったとしても、わたしは絶対にためらわない」
横に置いていた剣を持ち上げて、強く答える。
「わたしは、生きるのを諦めないから」
それが天の意志。この「生きる」は、ただ心臓が動いている状態のことを言っているのではなく。自分の思うままに、自由でありつづけるという意思が含まれているように思えた。
「……やっぱ、強いな。天は。俺はあのときがむしゃらで、何の力にも……」
そうぼやいていると天は首を横に振った。
「近衛さんの、おかげでもあるよ。わたしが生きてみようって思えたのは」
そして立ち上がる。
「近衛さんがあのとき、この子と喧嘩してくれなかったら。近衛さんの考え方を知れなかったら。わたしは本当に、あそこで永遠に生き続けていたかもしれない……」
そして、手を差し伸べてくれた。
「だから、感謝してる」
白い手だった。あの暗い島で見た彼女の肌からは、生気が感じられなかった。でも今は違う。
「……なんか、勝手にふさぎ込んでて馬鹿みたいだな。俺」
その手を掴む。温度があって、血が通っているのがわかる。
彼女の白は、柔らかい白だ。決して冷たい色なんかじゃない。
俺も立ち上がって笑って見せた。
確かに、何かを壊したかもしれない。
でも、新しく手に入れたものもある。今見せている彼女の笑顔は、帽子の鍔でも隠しきれていなかった。
「……近衛、」
名前を呼びかけて少しだけ視線を外した天は、そして意を決したように俺を見据えた。
「———近衛、くん」
「……!?」
途端。
顔が。いや、顔どころか身体全体が熱くなったような気がして後ずさった。
「え、くんって、え」
「だってもう、友達だから。近衛さんのままだと……やっぱり、他人みたいで」
そう言ってはにかむように笑う彼女の頬も薄い桃色に染まりかけていた。
「あ……そっか、そうだよな……」
でもつまり、今までは友人と思ってなかったってことだろう。
……いや、別に気にしてはいない。勝手に話しかけてたのは自分の方だったし。でもなんだか、悔しい。
「……それなら、そいつの名前も教えてよ」
天の持っている刀を指さす。コイツとかなり協力していたはずなのに、結局名前を知ることが出来なかった。天は少しだけ刀を見ると困ったような顔をしながら言う。
「教えられないかな」
「ええ、なんで」
「きっといつか、この子が自分から教えてくれるよ」
「……いや、天が許さないってコイツ言ってたよ!? 俺結局なんて呼べばいいんだよ。コイツ、アイツ、ヤツ……くらいしか呼び名ないぞ!? あと……そうだ、剣野郎って名前で呼んじゃうぞ! 天はそれでいいのか!?」
慌てふためく自分を見て腹を抱えて笑い始める天。
季節外れの海への旅行。
そこで得たものはやっぱりズレた体験だったけれど。
人と人が友人になれる、特別な一つのきっかけなのだった。
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