海の玉並べ-5 海/水平線
『季節外れも大外れな海は、気のせいか波が高いように見える。雪は少ししか降っていないはずなのに耳につんざくような飛沫の音が荒れに荒れた猛吹雪を思わせた。厚い防寒着を纏っていても満足な暖かさを得る事はできない。当然人はいなかった。こんな時期にこんな場所にわざわざやってきたのは自分と天と瀬古さんの三人だけだった』
「また書いてる」
隣で天が覗いている。
「癖だし」
見えたものを全て書き終えてメモ帳をぱたりと閉じた。数分立つだけでも凍えるような寒さ。息の白さは街にいるときよりも純白に見えた。
こんなにも寒いというのに、天は厚着をするどころか普段と何も変わらない薄着をしていた。
「……うおおマジで寒い! 本当キツイ。ここの近くの宿に泊るって正気ですか?」
「正気だとも。折角の海だ、早速楽しもうじゃないか!」
いつにも増して気分のいい瀬古さん。普段から着物姿のこの人だが、今日はレジャーに行く用の動きやすいスポーツシャツを着ていた。
「よぉし、行くぞぉ!」
改めて感じた。この人が正気な時なんて一瞬たりとも存在しない。なぜなら。
普通の人はこんな季節にわざわざ寒そうなシャツを着ないし、挙句の果てには水着姿になろうとは思わないからだ。
「うおおおおおおおおおおお!」
「……」
瀬古さんの奇行は今更驚くまでもない。冷蔵庫にカイロを入れたり本を逆さまのまま小一時間読んでいたりと、常人の自分にはなかなか理解できない行動を繰り返している。ここ数週間で完全に慣れ切ってしまったが。瀬古さんが何をしても特に気にならなくなってしまった。
冬の海に飛び込んでいく瀬古さんを俺と天は黙って見守る。ばしゃんと音を立てて数秒、慌てるように飛び出てトンボ返りする大の大人の姿に、もう何も言葉はいらないのだった。
「大変だ……グスッ、ちょっと、僕……グスッ、風邪引いたかも」
「でしょうね。もう宿行きましょう」
そそくさと荷物をまとめて宿に向かい始めた。
———『のぞみの宿』
海岸と繋がっている十段ほどの石階段を上がり、道路沿いに百数メートル歩いていくとその建物は見えてくる。横に長い、如何にもな民宿だ。石垣に飾られた銅で作られている看板にその名が記されている。しかし結構な部分が錆びていて、所謂年季を感じさせているのだった。宿は白いコンクリートの壁で二階建て、場所相応で時代不相応な瓦の屋根は、この施設が恐らくバブル期以前からあったことの証明だ。一見して悪いものではないように思えた。
「ははははははは早く入らないかいいいいいいいいい?」
「はいはい今チェックインしますからねー?」
「……介護、というの?」
透明なガラスの扉は押すタイプ。宿の中に入っていくと、小さくちり、ちり、と音を鳴らしながら、お婆さんがそそくさと出迎えにやって来た。
「予約していた、瀬古です」
「ええ、お待ちしておりました。お寒い中よくお越しになりましたね。ささ、もっと中にお入りなさい」
腰を抑えながらやってきたお婆さん。身長は百五十もないのだろうか、とても小さく見える。薄紫色の仕事着に愛らしい丸の顔、小さな瞳。灰色の後ろ髪はお団子状にまとめられていて、小鈴のついたかんざしが刺さっている。
老舗の宿に人の好さそうな女将が一人。悪い所ではないのは明らかだった。廊下も新品のフローリングのように煌びやかで、隈なく掃除されているようだった。
「わたくしがここの主の、
「はい。お世話になります」
鍵を二つ受け取った。
「御夕飯はお部屋にお持ちいたします。二部屋に別れて泊まられるとのことですが、いかがいたしますか? 別々に運ぶか、もしくは一部屋に」
「そうですね……」
後ろを見る。天が瀬古さんの背中を擦っていた。
「じゃあ、ご飯は自分の方の部屋に全てお願いします」
「かしこまりました」
「それと……」
「はい?」
「早速で悪いんですけど、暖かいお茶をくださいませんか?」
背後で大きなくしゃみの音が聞こえた。
予約されていた部屋は二つ。俺と瀬古さんで一部屋。天はその隣の一室に宿泊する予定だった。現在進行形で風邪を引いている不審者と同室にされていることに関して流石に文句を言いたかったが、過ぎたことは仕方がない。荷物を置いていると女将さんがお茶を運んできてくれた。瀬古さんはそれをすぐに飲み干した。そして舌を火傷した。埒があかないのでもう布団を敷いて強引に寝かせた。そして後から天がこっちの部屋に入ってきた。
「瀬古さんは?」
「ん? ああ、寝たよ。悪夢を見てるみたいだけど」
「んんんんんんん…」
天は瀬古さんを心配して見に来……たわけではなさそうだ。俺たちがこっちにいるから入ってきただけらしい。
窓の方を見るとまだ雪は降り続けている。まだ昼に差し掛かったばかりなのでこれから少しは気温も上がってくるだろう。
「流石に一日ずっとここで過ごすのもな。ちょっと休んだらまた海の方行くか。天はどうする?」
「……行く」
「え……あ、そうか」
やけに素直だった。普段なら「どうして?」とか聞いてきそうなものだけど。
「そもそも、なんで瀬古さんは海に行こうなんて言い出したんだ。天は何か聞いてる?」
「……前々から、わたしに海を見た方がいいって言っていたから、それかも」
「つまり……天のために予定を立てたってことか」
それなら少しは納得のしようがある。瀬古さんは結構天のことを甘やかす……は言い過ぎだが、世話を焼いているような場面が多かった。今回の旅行もその一環らしい。
「ならちゃんとそれを言ってほしかったけどな……」
事前に説明をしない。それが瀬古逸嘉というダメな大人だということを再認識するのだった。
「ん、じゃあ天は海を見たことがないってこと?」
天は頷きながら窓の方に近づく。お世辞にも綺麗とは言えない、少し濁った色の海が見えていた。夏なら少しは透き通って見えるはずだが、さすがにこの季節は仕方がない。
「じゃあテレビくらいでしか見たことないのか」
「テレビ……?」
耳に慣れない単語らしい。
「まさか、テレビも、知らないと」
首を傾げつつ頷く。
「……いや、ほんとどこ出身……? 山にでも住んでたのか……?」
天はまた海の方を見る。窓を冷気が入らない程度に開けると微かに波の音が部屋に入ってくる。
「へっくしょん!」
瀬古さんのくしゃみ。それを聞いて天は窓を閉じた。
「もっと、よく見たい」
そう呟くと天はそのまま部屋を出ようとした。
「ちょっと待って、今はまだ寒いから後にした方が」
聞かずに外に出ようとする天。しかし扉を開けると、そこには女将が立っていた。
「おや、お出かけですか?」
女将の両手には定食料理が乗せられている盆があった。
「予定より早い到着でしたので、簡単なものでもと」
簡単という割にはご飯、みそ汁、山菜、魚と、がっつり夕飯の献立のように見える。しかし白いご飯から漂っている湯気が腹の減りを実感させたのだった。
「いえ、いただきます。昼ご飯も食べるところ決めてなかったし。これ食べてからでもいいだろ? 天」
天が部屋に戻ると女将は料理を三人分運んでいった。天は机に運ばれていく料理からずっと目を離さなかった。一方、瀬古さんは息を吹き返したように目を開き、
「もう夕飯!?」
と言って起き上がるのだった。
午後二時ごろ。陽が最も高い位置に来ている時間。一応、最高気温には達しているはずのひと時。
女将さんお手製料理を大変満足に楽しんでから昼寝に入った瀬古さんを置いて、俺と天は海の方に出ている。雪は降っていない。しかし鉛色の雲が空を覆っている。その僅かな隙間からの陽光が数分おきに砂浜と海面を照らしてくれる。
湿った砂の大地をざくざくと踏み鳴らしながら海沿いに歩いてみている。
「本当酷い景色。せめて晴れてる日に予定入れてくれれば、俺も文句ないのに」
「今日と晴れてる日の海は、違うの?」
「そりゃそうだよ。陽の光がずっと届いてる方が海の色も綺麗になる」
「今の色は、綺麗じゃないんだ」
「俺には汚く見える。濁ってるように見える。まるで排水みたいで、魚の代わりに生ごみが泳いでそうだ」
ふと風が吹き、破けたレジ袋が頬を掠めていった。
「あのゴミだって、晴れてたら誰も気にしなくなる。どうでもいいものだから」
すぐそこに落ちたそれを拾う。曇った日は地面に落ちたゴミがなおのこと世界に溶け込んでいるように見える。それがなんとなく落ち着かない。ゴミが似合う世界なんて、気持ちのいいはずがないのだから。
天も習うように砂を拾う。手の隙間から落ちていくそれを静かに眺めている。
「海の土は綺麗」
「土か……」
「硬くない。ドロドロしていない。軽い」
砂いじりに勤しむ天。何度も掬い上げては勝手に消えていく粒の流れを眺めている。
ずっと散歩していた。海沿いに真っすぐ進んでいた。その間何か話すわけでもない。ただ波の音が聞こえてくるだけ。気まずいからというわけではなく、こっちの方がこの場所に似合っていると感じたからだ。
天が海の方を見て立ち止まる。
「どうした?」
海の奥を指さす。
「あの線、何?」
「線?」
線とは何だろうと思いつつ海を見てみるが、それらしきものは見えない。
「どれ?」
「線……というより、海の、ずっと奥、のような」
「奥」を強調しながらわずかに飛び跳ねている。
「……あ、水平線のこと?」
「水平線?」
振り向く天。
「うん。空と海の境目のことでしょ? 線って」
天は頷く。
「それが水平線だよ」
「なんで線なの?」
「なんで……んー、難しいな。俺たちの見える景色の果て、みたいな」
水平線をどう説明すべきか悩みながら言葉を出していく。
「地球って丸いだろ? 地面は平らに見えるけど、それは地球が大きすぎるからそう見えるだけで。あの線のところがちょうど曲線になってるんだよ」
手で丸を描きながら説明する。
「じゃあ、あの線の先にもまだ海はあるってこと?」
「……海どころか、もっと行けば島とか見えてくるかもしれないな」
「何もないわけじゃ、ないんだ」
そのまま奥の景色の限界を見つめる。
「なんだか、安心した」
すると天はおもむろに靴を脱ぎだした。そして靴下も捨て、そのまま海に走っていく。
「天? ちょっと!」
聞かずに天は走っていく。すぐ横に落ちている靴を拾ってその後を追った。
最高気温とはいっても、実際は十度に行くか行かないかくらいだ。マシなだけで暖かいわけではない。加えて雪。そんな日の海に裸足で入るなんてどうかしている。想像するだけで足の感覚が無くなってしまいそうだ。でも今は、それ以上に。
「……すごい絵になってる」
足を浸からせてじっと最奥を眺めている天の後ろ姿が、雪に似合っているように見えた。
偶然、雲の隙間から差し込んできた光。それは遥か遠くの海面に白い円を映し出した。そんな自然現象の不思議さ、美しさを、天はずっと眺め続けていた。
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