佐々木迷宮-Last 姉/弟
ぱぱとままがすきでした。
なかのいいぱぱとままがすきでした。
たのしそうなぱぱとままがすきでした。
あたまをつよくなでてくれるぱぱのおててがだいすきで。
ほっぺをつんとするくらいつまんでくれるままのゆびがだいすきでした。
それでなくとみんなわらってくれるので、うれしかったです。
いたいはたのしい。
ぱぱとままにいわれて、わたしもたのしいとおもいました。
きづいたらぱぱとままはいませんでした。
おるすばんです。
かえってくるまでしずかにまちます。
ひとりでやるおままごとはつまんなかったです。
なので、おそとにでました。
いろんなひとがいました。
まっくらでこわいのに、そのひとたちはだいじょうぶそうでした。
ふしぎにおもったのではなしかけたら、ねてしまいました。
みんなねてしまったので、つまんなくなってかえりました。
でもいえには、そのひとたちがいました。
わたしもぱぱとままがいなくてたのしかったので、そのひとたちとおままごとをすることにしました。
とても、たのしかったです。
でもぱぱとままは、いつまでもかえってきてくれませんでした。
そんなわたしを、そのひとたちはなぐさめてくれました。
そしてぱぱとままのかわりになってくれました。
ずっとずっとわたしとあそんでくれました。
でも、おとなのひとはすぐつかれちゃいます。
わたしはまだまだあそべるのに。
なので、どんどんあたらしいひとたちをよびます。
そしてあそびます。
つまらないことはなくなりました。
きょうもぱぱとままとあそびました。
きのうもぱぱとままとあそびました。
あしたもぱぱとままとあそびました。
わたしといっしょにあそんでくれるひとはぱぱとままです。
ふたりともずっとわたしといっしょにあそんでくれていました。
わたしはずっとぱぱとままといたのです。
ずっとひとりではなかったのです。
あるひのこと。
ぱぱがかえってきました。
そのひとは、ぱぱでした。
ぱぱにしかみえませんでした。
うれしかったので、いっしょにあそぼっていいました。
いつもみたいにあそびます。
でも。
ぱぱはとてもなきそうなかおをしていました。
なんでだろうっておもいました。
そしたらぱぱがいいました。
「姉さん」
その時。
私の中で止まっていた何かが、動き出したのです。
起きる。
見渡すと誰もいない子供部屋。
……。
何が起きたのかを思い出す。
和俊さんが、その場で裏切った。最初からそのつもりだったのかもしれない。でも、それでも信じていた。実の弟である和俊さんの言葉ならきっと瑠璃ちゃんを止められると信じていた。でも、結果は。
多分眠らされたんだろう。そして昨日みたいに精神だけを引きずり出された。
……じっとしてる場合じゃない。とにかく元の身体に戻らないと、
「あなた、誰なの?」
———————————————。
声。
「……瑠璃ちゃん」
気づいたら目の前に、あの子がいた。
「家族じゃないあなたは、誰なの?」
「俺は」
瞬間、頭の中でピキンと金属が折れるような音が響いた。意識が揺らぐ。そして波のように彼女の意識が流れ込んでくる。耐えないと。これを耐えないと、自分を保っていられない。
「ぱぱ、まま、きょうもあそぼ」
「俺は違う、君の家族じゃ、ない」
重力が倍になって身体を縫い付けようとする。同時に自意識と彼女の意思が混濁し続けている。自分が自分であるために必死に細い糸を掴んでいるようだった。
「どうして?どうしてそんなことを言うの?」
こうしていながらも理解する。俺の言葉に彼女は確かに反応してくれている。今なら説得できるかもしれない。
「ねえ教えて?あなたは私の知っている人?」
「ッはあ……俺は……」
声を捻りだすのもかなりの集中力がいる。
「俺は……つい最近、君と会ったばかり、で……」
「最近……いつ?」
「三日前……かな……」
「じゃあ多分知らないね」
思った以上に彼女は話してくれている。俺も無理に作った笑顔を返す。
「ねえ、お兄ちゃん。名前教えて?」
さっきまでの子ども相応の、無邪気な雰囲気は無くなっていた。少し成長してちょっとだけ大人になったような。
「近衛、槙」
「私はね、佐々木瑠璃……あ、知ってたっけ。どうして?」
「……その前、に、これ、止めてくれない……?」
「あ、ごめんなさい」
彼女がそう言った瞬間、身体にかかっていた負担が消え、頭のぐちゃぐちゃも無くなった。
「ッはあ、ッはあ、やっと、これで、話せる……」
「ごめんなさい。言うこと聞いてくれなかったから……」
仄かな笑顔を見せるが、そこから若干の申し訳なさも感じられた。
「ふう……落ち着いた」
「よかった。それで、なんで私の名前を知ってるの?」
「……それは」
言うべきか迷った。伝えることでどんな反応を示すのかわからないから。でも、今俺と彼女がごく自然に会話をできている。ちゃんと、自分と同じ一人の人間として向き合おう。相手は人だ。幽霊でも化け物でもない。怖いことは、何もない。
「佐々木和俊さん。君の、弟だ。その人に教えてもらった」
少しだけ沈黙が流れた。瑠璃ちゃんは少しだけ視線を落とし、「おとうと」という言葉を何度も口の中で転がしていた。
「やっぱり弟なんだ。あの人」
「……気づいてたの?」
「うん。凄くパパに似てるから、びっくりしちゃったけど」
彼女ははにかむようにそう言った。
「そっか。弟なんだ。そっか……」
噛みしめるように、「おとうと」という言葉を呟く。
「全然そんな気しないね」
「まあ、和俊さんも結構年取ってるし」
「じゃあ、私もすごい長くここにいたんだね」
「……うん」
瑠璃ちゃんはその場で座り込んだ。続いて俺もその隣に座る。まるで先生と児童。瑠璃ちゃんはしばらく沈黙する。話しかけはしない。彼女は彼女なりに、自分の頭の中で整理しているんだろう。だから見守る。
「初めてその人と会った時ね、夢から醒めたって感じがしたの」
「夢?」
「ぱぱとままと私の三人が一緒にいる夢。それから目が醒めて、本当は私は一人ぼっちだったんだって気づいたの」
「そうなんだ」
「あの人にね、姉さんって呼ばれたの。私、自分がお姉ちゃんって思ってなかったから、それで起きたのかも」
そうか。確かに彼女には母と父の記憶しかないし、連れ込んだ人に与える役職も親というものだった。それに『姉』や『弟』という未知の概念が持ち込まれて、瑠璃ちゃんの幽霊としての定義が崩れた……んじゃないか。
……推理には長けているという若干の自負はあったが、まさかそれがオカルト方面にも通じるとは。
「起きてからね、その人のことがなんとなくわかったの。思い出とかがなんとなくわかるの。色んな時の気持ちとか。私の楽しい気持ちは、あの人は苦しいって気持ちだったの」
「うん」
「苦しいって気持ちがわかったとき、私も苦しいってなって。もう嫌だなってなったの」
「……でも君は」
「うん。また眠っちゃった」
そして和俊さんは、たった一瞬芽生えた彼女の感情を汲み取れなかった。あの瞬間確かに瑠璃ちゃんは、自分が苦しい世界にいたことを自覚したんだろう。でも和俊さんは、彼女がそのままでいることこそが幸福であると履き違えてしまった。
あまりに年の離れた姉弟。ずっと幼いままで喜怒哀楽のズレに気づけなかった姉と、年老いて諦念しか持てず、変えないことしか選べなかった弟。二人が歩み寄るには、あまりにその溝は深すぎた。結果として和俊さんは実の姉を永遠に苦しませるという最悪の手段を取ってしまった。
「……あ、でも俺が会った時は」
「お兄ちゃんが来た時すごくびっくりしたんだよ?だって身体のままだったもん。びっくりしすぎて……遊びすぎちゃった……」
少しだけ顔を赤らめてくる。あれが、遊び……? 手だけの怪物に延々と追いかけられ続けたあれが、遊び……?
「でもね。捕まえたいって思ったのは本当だよ」
「こわ……」
「……」
「……あ、ごめん!」
素で言ってしまった。少し経ってから気づいてすぐ謝罪したが、肝心の彼女は少しばかり拗ねてしまった。
「……なんでそう思ったの? 俺を家族にしたいから?」
「……最初はそうだったけど、今はちがうよ」
頬を膨らませながら首を横に振る。
「私がお兄ちゃんと話すのは、助けてほしいから」
「……俺に、助けてほしい?」
「だってお兄ちゃん、遊んでた時に、これはダメだって言ってくれたでしょ?」
「……言ったけど、それだけ?」
「他の人はみんな私の言うこと聞くもん。そんなこと言う人いなかったよ」
つまり、囚われてる他の人は連れ込まれた時点で人形になっていた……ということか。俺は眠らないでここに来たから、ちゃんとした反応で返せたのか。
「お兄ちゃんはちゃんと怒ってくれる人だと思った。だから話したいってなって」
俺はただ偶然ここに来て、巻き込まれたに過ぎない。そんな自分が鍵になるなんて。
「できることならなんでもやるけど、でも……」
それはそれとして、今まですごい命の危機を感じた気がする。
「遊び方が……」
「うーん。そのときは眠ったままで、ちょっとしか起きてなかった感じだもん」
「寝起き……」
寝相が凶悪すぎたのもなんとかならなかったのだろうか。
「……こわがらせてごめんなさい」
「あ……」
しゅんとさせてしまった。表情に出てしまったらしい。
でもこうして話していると本当に瑠璃ちゃんは幼いままなんだなとわかった。当初の様子と比べると大人びたと感じたが、それは年長さんになった、の間違いだろう。自分の思っていることをたどたどしくもちゃんと教えてくれる。和俊さんの思い出を見たと言っていたから、それで大人というものを知って真似ている、というのもあるかもしれない。
「弟もごめんなさい。お兄ちゃんと、あのお姉ちゃんに酷いことしちゃってごめんなさい。それと他に巻きこんじゃった人も……」
お姉ちゃんというのは多分天のことだろう。瑠璃ちゃんは今まで連れ去った人々全員に対して謝った。
「寂しかったんだな。やったことはそりゃあ、許されないけど。でも寂しかったんだろ?」
俺は今まで犠牲になった全員を代表できない。こうして俯いているこの子を慰めることも、対等に話そうとするのも、彼らからすれば腹が煮えくり返る所業だろう。
でも俺は、今の彼女を人としてしか見れないから。
「聞けてよかった。君がちゃんと謝れる子でよかった」
「……うん」
とても、素直な少女だった。受け答えができて、ちゃんと人の話も聞いて、自分を顧みることもできる。
そしてなによりも。
瑠璃ちゃんは感情の使い方がとても年相応らしくなっていた。
こうして対話できているのが何よりの証拠だ。
「大人になってきてるよ。瑠璃ちゃん」
「ほんと?」
目をキラキラとさせて見上げてくる。
「私、お姉ちゃんになってる?」
「なってるなってる」
えへへ、と素直な笑顔を見せる。きっと和俊さんも見たことのない顔だろう。
「きっとそのまま大きくなったら、素敵な人に……」
そこまで言いかけてはっとして止めた。今のはあまりに禁句すぎた。
「大きく、かあ」
「……ごめん、俺」
「ううん。いいの」
微笑みながらそう返した。
「今までじゃ考えたことなかったなあ。おっきくなった自分なんて」
ひとりごつ瑠璃ちゃん。その横顔はあまりにも生きている人のそれで。
「……大人になったら、何したい?」
と、聞いてしまっていた。
「わかんないや。だって知らないことばかりだもん。大きくなるなんて」
「確かに、そうかも」
俺も子供のころは、自分と大人を完全に違うものとして考えていた。俺は子供として生まれて、ずっと子どものままでい続けられると勘違いしていて、同時に大人も生まれたときからずっと大人だったはずだと思っていたように。
「あの人、私の弟なのに大人だったなー」
「……そうだね」
「お兄ちゃん、大人になると人ってどうなるの?」
「え?」
瑠璃ちゃんから疑問を投げかけられた。なんて答えようか、しばらく考える。まだ高校生だし、俺だって半分は子どもみたいなものだ。でも、やっぱり今の俺が思うに。
「感情の使い方が上手になる……かな」
「かんじょう?」
「嬉しいとか、嫌だとか、悲しいとか、楽しいとか。瑠璃ちゃんにもあるでしょ?それが、ちゃんとはっきりしてる人が、大人だと思うな」
どうしてこう思ったんだろう。その明確な理由は俺にもわからない。ただ生きている過程で、色んな経験を積んだ結果、自然とこう思うようになった……のかもしれない。
「あの人も私と会った時泣きそうな顔してた」
「……うん。じゃあ大人だ」
「ちゃんと悲しいって思ってくれてるから?」
「うん」
「じゃあちゃんと怒ってくれたお兄ちゃんも大人?」
……自分の発言を撤回したくなってきた。まあ、大人に向かっている時期であることは間違いじゃないけど。
「大人って言われて嬉しいって思った私も?」
「それは、そうだ。大人の入り口に立ってる」
「えへへ」
照れるように笑う瑠璃ちゃん。その笑顔を見るたびに、この子が既に亡くなっているという事実が胸を締め付けてくる。そしてそんな彼女の”生きている”部分に気づけないまま自分の気持ちを裏切り続けている彼を助けないといけないという思いが生まれてくる。
「……尚更、和俊さんを止めないとな」
「うん! 私お姉ちゃんだから。弟の悪いところはちゃんと注意する! でも」
「でも?」
「私どうやって起きればいいんだろ?」
「……ああ、現実にいる君は、寝ている状態だったっけ」
「自分から起きれたことない」
「そっか……」
前は確か、天に引っ張り出してもらって助けられたんだった。俺の精神体を……。
「……ん」
確か前に夢の中に入ったとき、現実の俺は、肉体と精神体に分裂してたよな。それが元に戻れば現実に帰ってこれる……。
「いや……」
それは現実にいないとできないことじゃないか。こっちにいる限り向こう側に干渉できない。結局どうしようも……
『そもそもお前は起きたままだぞ』
……。
「ん?」
「どうしたの?」
「聞こえた?」
「なにが?」
『今のお前はさっきこいつの言っていた、眠ったまま起きている、寝起きの状態と同じだ。要が済んだらさっさと戻ってこい』
……天?
『……』
声が微妙に違う気がするけど、口調は戦ってるときの天そのものだ。
『起こすぞ』
「いやちょっと待って! なんで天が話しかけてんの!? 手の方はどうしたんだよ!」
『私の意識を少しだけお前にも付与している。戦闘の方は安心しろ。善戦している』
「……無理してるわけじゃない?」
『無理を強いてはいるな』
「……わかった。でも、瑠璃ちゃんは?」
『触っていろ。一緒に連れていってやる』
そう言い放って天の声は消えた。咄嗟に瑠璃ちゃんの手を掴む。
「起きるよ、瑠璃ちゃん」
「起きれるの?」
「ああ。夢から醒めるんだ。それでもって、弟くんにガツンといってやるんだ」
「……!」
ぱあと顔の晴れる瑠璃ちゃん。
「とりあえず、最初何する?」
「びんた!」
「……なるべく平和的にね!」
目を瞑る。意識が溶けていく感覚がする。身体の芯が、何かと合致した感覚がした。
「……!? なんで無事で」
「ばかおとうとー!!!」
起きた瞬間!
驚く和俊さんに向かって!
瑠璃ちゃんがドロップキックを!
「姉さん!? なんで」
「この!おバカ!ドアホ!まぬけ!」
「待て待て待て!」
後ろ向きに倒れた和俊さんの顔を何度も平手打ちしている。
「平和的にって言ったのに!」
後ろから担ぎ上げる形で二人を引き離した。そのときの瑠璃ちゃんの身体は、生きてる人のようなあたたかさがあった。
「っはあ……はあ……」
天を襲っていた腕の動きが止まった。
「……?」
そしてゆっくりと霧散していく。その様子を見て天は安堵した。
「成功、したのかな。近衛さん……」
銀世界も消えていく。天は眠るように目を閉じた。
和俊さんは正座をし、「なにがなんだかわからない」といった風な表情を浮かべている。彼の前で瑠璃ちゃんが腕を組みながら仁王立ちをしている。弟に説教する姉……なのだが、お互いの肉体的な年齢が年齢なので子どもにこき使われている中年男性にしか見えない。
「か……かずとし!」
「……」
言い慣れない弟の名前を発破をかけて言う。
「私は、姉だから、かずとしを叱らないといけません!」
「……姉さん」
「まず、今まで巻き込んできた人たちを元に戻しなさい! そして謝る!」
すると和俊さんは納得できないと言うように返す。
「そんな……私は全て、姉さんのために」
「なんのためにもなってないの!」
遮るように姉は弟を叱り続ける。
「かずとしが私を喜ばせようとしたのもわかるし、そのために色々頑張ってたのもわかる! でもね、他の人を巻き込むのは違うし、それでかずとしが悲しくなるのも違う!」
「……私が、悲しい? そんなことは……」
狼狽える和俊さん。その様子を見て瑠璃ちゃんは深呼吸した。
「泣いてたよ。私、お姉ちゃんだからわかるもん。初めて会ったときから、かずとしが苦しんできて、これからもっと辛くなろうとしてたのわかっちゃったもん」
落ち着いた口調だった。叱るタイミングと、冷静に話すタイミングをわけて話している。彼女は自分の感情を制御できていた。
「初めて会った時? それって……」
「初めてかずとしが会いに来てくれたとき、かずとしは気づけなかったかもだけど、私は、かずとしが弟だってわかったの」
「……」
絶句する和俊さん。その顔が段々と土気色になっていくのがわかった。
「でも、でも姉さんは」
「うん……私はずっと、それをあなたに言うことが出来なかった」
姉は弟を抱擁する。
「私はかずとしの思い出が見えた。色んな気持ちも知った。あなたに会えた瞬間に、私は、生き返ったの」
「生き返った……いや……」
わなわなと震える和俊さんの目にはじわりと透明な涙が溢れ出ようとしていた。
「姉さんは……もう死んだんだよ。だって、だって。姉さんの身体は、あまりに冷たすぎるじゃないか……!」
己を抱きしめている姉の身体を、和俊さんは震えた手で触れていた。
「……そうだね」
俺はその様子を傍観することしかできない。どこかでフォローしようと思っていたけど、その必要はないみたいだ。あの姉弟ならきっとわかりあえる。
「でも、生きてるよ。私は生きてる。だって生きていないと、こうして話せないでしょ? 私の心は、今も生きてるんだよ」
「……僕は、なんてことを」
「ごめんね。私のせいで、かずとしの人生をめちゃくちゃにしちゃって……きっとあのとき私が、はっきり喋れていたら、あなたは私のことで悩んだりしなくてよかったのに」
和俊さんは首を横に振り、瑠璃ちゃんの顔を見据える。
「そんなことはないよ、姉さん。僕は、苦しかったかもしれない。でもこの苦しみは、僕にとっては、嬉しいものだったんだ。だってやっと、家族といえる人に会えたんだから。姉さんだけが僕にとっての家族だったんだ。姉さんが幸せになってくれるなら、僕は」
そこまでいいかけて和俊さんははっとした。
「……僕は」
「かずとし」
姉はもう一度抱擁し直す。弟はもう涙腺を抑えることができていなかった。
「もう、いいんだよ」
「———」
声にならない懺悔。言葉にできない謝罪が反響する。俺は静かに、その部屋を後にした。
外に出ると、広がりすぎていた廊下が普通の一軒家のサイズになっていて、ほんのりと電灯がついて多少明るくなっていた。幾重にも分岐していた道は消え、階段のあるところまで一直線の道になっていた。そして瑠璃ちゃんの部屋のすぐ前で、天が壁に寄りかかりながら待っていた。天は俺に気づくとさらりと歩み寄ってきた。
「……終わったんですね」
彼女は気弱な方の天だった。
「うん。無事、仲直りできたみたいだ」
「よかったです」
二人で同時に安堵の溜息を漏らす。
「……結構、大変みたいでしたね」
「ん? ああ、まあなかなかきつかった。でも、ほとんど俺の出番はなかったよ」
「そうなんですか?」
「うん。瑠璃ちゃんが凄く強い子だったから。それにこれは、ちゃんとお互いの気持ちを話していれば解決できたことだったんだよ」
「でも、近衛さんも頑張ってたと思います。身体張ってましたし」
「……ま、一度乗りかかった船じゃあるし」
「もう関わらないってこの前言ってましたけど」
「……ほっとけなかったんだよ!」
つい恥ずかしくなって勢いつけてそう言ってしまった。
「……近衛さんはあの幽霊とは、本当に最近会ったばかりだったんですよね」
「そうだけど」
「会ったばかりなのに、どうしてあんなにその人のために頑張ろうって思えたんですか?」
「……」
いや、だって、それは。
「本当に、ほっとけなかっただけだよ。それ以外に理由は……ないと思う。あんな小さな子を無視できるほど、薄情な人間じゃないよ」
思ったより大人びた子だったけどねと付け加える。すると天は口元に指を添えて考える素振りを見せる。
「人って、そんなにも助けたいものなんですか?」
「……え?」
「返って自分が辛い目に会うかもしれないのに。今回みたいに命にかかわりそうなことだったのに。それでも、ほっとけないのは、どうしてですか? わたしは自分のことで精いっぱいなのに」
真っすぐな視線で疑問を投げかけてくる。帽子の鍔の影で目元が見え辛くなっているはずなのに、純朴な視線を浴びせられるように感じた。
「天はさ。俺のこと助けてくれたじゃん。それと同じだと思う」
「それは……違うと思います。近衛さんとわたしでは」
「……同じだと思うけどね? 天もほっとけなかったから俺を助けてくれたんでしょ?」
「——————」
反応の薄い天。でも彼女は俺の言葉を聞いて驚いているように見えた。
「自分の方が酷い目に会うってことは……あまり考えてなかったけどね、俺は」
自分の素直な考えを喋り続けていると天は帽子をさらに深く被ってしまった。会話はそれで終わり。その後十数分、俺たちは静かに姉弟が出てくるのを待ち続けた。
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