佐々木迷宮-6 麒麟/痕
相変わらず真っ黒な廊下。一本道。もはやこれには慣れてしまった。
「———最悪だ」
隣で立つ天は不満を言う。
「まさか同じところに毎日押し掛けることになるとは。しかも三度……」
「ごめん……」
本来ならもうこの家に来る必要はなかった。だから今ここにいるのはまだ仕事が残っているわけではなく、単に俺の独断だ。
「私はお前のお守りではない。早く終わらせるぞ」
「ああ……後でアイス奢るよ」
すると天が急にこっちの方を向いてきた。
ぱあ……!
という擬音が良く似合う笑顔だった。
「アイス……!」
急に元の性格に戻るなんて、どれだけアイスが好きなんだ。
「———すぐに終わらせろ」
「急に元に戻るじゃん……」
なんて温度差の激しい……。
「それじゃあ……行きましょう。瑠璃ちゃんのところに」
もう一人の同行者に向けて声をかける。
「佐々木和俊さん」
未だに恐怖の感情を拭いきれない彼はそれでも頷いて、俺たちは歩き出した。
「……近衛、さん?」
「槙君。どうして」
瀬古さんと天は引き気味で言葉を発した。
「どうして、泣いているんだい」
「———俺は、見たんだ」
忘れていた夢の内容が一気に蘇っていく。
「瑠璃ちゃんの見ていた世界の全てを見た。そのとき思ったことを、感情を直に知った。そして……そのうえで、羨ましいって訴えてきたあの顔を、見せてきたんだ」
あの表情。間違いであるはずがなかった。あれは紛れもなく。
「俺に向けられたものだった。俺の反応を見て……あの子はそんな風に返してきたんだ」
「夢の話だろう?」
「夢じゃない!いや……確かに夢だけど……天! 昨日俺を助けに行ったんだよな?」
「え」
急に質問されてたじろぐ天。
「……確かに、行ったけど……」
「そのときの状況を覚えてる。天は……俺を引っ張り出して、背負ってたはずだ」
瀬古さんはそうなの?と言いたげな表情を天に向けた。
「その通り、です」
「その後、多分俺が元の身体に戻っていってるときに見たんだと思う。なんというか、夢の中で寝てさらに別の夢を見た、みたいな」
「ふむ。興味深いな。地縛霊が生者に対して生前になかったアクションをとった、と」
瀬古さんが自問自答しはじめる。その間天がハンカチを持ってきて目元を拭ってくれた。
「幽霊、と決まったわけではないが、まあほとんど幽霊と考えていいが、その類の者は過去の記録の残滓だ。その行動理念は決まっている。怨念だとか、未練とかに基づいている。これらは全て過去のもの。覆しようのない、不変の事実だ。しかし霊はそれを認めないがために成仏せずこの世に残るってことが多い。だからその行動も、いっちゃあ悪いがパターン化されているのがほとんどだ。変えられないものをどうにかするために動く。だが当の本人は、それが永遠に不可能だということに気づけない。だから何年経っても残り続けるわけだ。しかし今の話を聞くに……」
喉を唸らせて考える素振りを見せる瀬古さん。……なかなか答えを絞り出せないみたいだ。その間にずっと項垂れたままの和俊さんに話しかける。
「和俊さん、いいですか」
「……なんでしょうか」
瀬古さんの解説を聞いて気になったことがあった。変化しないはずの死者が、なにをきっかけとして新しいリアクションを見せたのか。
「瑠璃ちゃんと会った時のことをもっと詳しく教えてください」
「……」
「なんでもいい、気になったことを教えてください」
「……姉は」
少し考える素振りを見せてゆっくりと話し始める。
「最初私を見たとき、父だと言ったのですが……遊んでいる途中から、私のことを不思議そうに見上げてきたのです。なんというかあれは、初めて会う人に対する反応に近いような。その後はなんだか、素っ気ない?いや、優しいような雰囲気を見せてきて……とにかく最初会った時と段々様子が変わってきたのです」
「彼女は、連れ去った人を遊び相手としての家族と認識するはずじゃなかったのかい? 素っ気ない……優しい……ましてや実の血縁なのにどうしてそんな反応になるんだ?」
「……和俊さん。俺と天以外に、生身の状態であの家に入った人はいましたか?」
「いえ、基本は、私が眠らせると姉が精神の方を連れていくので、わざわざあの家に引き寄せることはないのです。そちらの方も、調査の途中で恐らくあの家に辿り着くはずで、そのときに眠らせようと」
「今それなりに重要なことを言ったな。どうしてあなたが眠らせると姉が連れていくっていう仕組みになってるんだ? 生者と死者の個人間のやり取りを成立させるには、当然同意に基づいた契約が必要だ。つまり、あなたが彼女と出逢った時、彼女に契約を交わせるほどの変化が起こったと考えられる。あなたが勝手にやって、彼女もそれについていく……なんてことはあり得ないのだが」
「……?」
「俺と和俊さんは、生身の状態で接触した……それが、瑠璃ちゃんに変化を与えたんじゃ」
「それだね」
謎だったピースがハマっていく。
「瑠璃ちゃんと俺たちが会ったことで、生き返った何かがある……」
「物を認識する力が限定的に成長を始めた……のかもしれない。彼女は和俊さんと遊んでいる間に、彼が生身の人間だったことも相まって、彼が父ではないことに気づいたのでは?」
「あの……」
静かにしていた天が声をかける。
「生身の人と、精神だけの人の違いって何ですか……?」
「うーん、人肌の温かさじゃない?」
瀬古さんがすごい適当に返した。
「ていうのも割と合っていてね。人は精神、肉体、魂の三要素で組み上がっている。この三つが揃っていて初めて存在証明ができるのさ。ちなみに幽霊とかは魂だけの状態ね。普段彼女は精神のみの人としか触れあっていなかったようだから、三要素の全てを持つ人との交流は珍しいことだったのだろう。外側からの新しい変化は時折霊を驚かせるものだ。和俊さん。あなたが瑠璃さんと会ったのはいつ頃です?」
「……2、3年前です」
「ほう。しかし病院では十年ほど前から眠ったままの患者もいるのですが、これは無関係と考えても」
「いえ……姉の近くには何人かの気配もしていたので、以前から人を招き入れていたように思います」
「では、あなたが会ってから、あなたが眠らせて姉が連れ去るというやり方になったと」
「……そう、なるのでしょうか。私としては姉のためと思って勝手にやっていたので。私が眠らせた人以外の人も、今でも連れて行っている可能性もあります」
「確かに。ですがあなたと彼女の契約がそこから始まったことは事実だ。あなたは姉に言われてこんなことを始めたのですか」
「言われたというより、やり方がイメージとして頭に浮かんだという感じです」
「ふむ。彼女からの一方的な接触か……やはりあなたと会ったことで何かしらの変化が起こったと考えるべきだね。では槙君」
「は、はい」
瀬古さんの尋問は俺の方に向けられた。
「夢の中で彼女と会った時、彼女はどのような反応をしたのかもう一度教えてくれ」
「はい……瑠璃ちゃんはまず、生前の家族の記憶を見せてきました。なんだか、それがとても楽しい思い出だったんだと、教えてきてくれたように感じたんです。その上で俺は、それは間違っているって返しました」
そして脳裏に浮かぶ、少女の顔。
「……とても羨むような顔で、寂しそうに返事をしたんです。あの表情は、死んだ人の見せるものじゃない。生きている人の顔だ。そうじゃなきゃこんなに……」
助けないといけないという気持ちがこんなに溢れてくるなんてあり得ない。
「ふむ。止まっていた感情や思考の枷が、生身の君たちと触れ合うことで解けたのかもしれないな。それが確かなら、対話の余地はあるだろう」
瀬古さんは適当なコピー用紙を床から拾ってメモしていた。
「その上でだ。槙君。その上で君はこれから何をする?」
「……もう一度会いに行きます。そしてなんとかして助けます」
「ダメ、ダメです」
天が釘を刺す。
「自分から危険な目にあいに行くのは、ダメです」
「槙君。これはお話屋としての意見だけどね。僕らが仕事として干渉するのはここまででいいんだよね。今回の怪異の真相を粗方引っ張り出せたし。この後あの家がどうなるかは管轄外だ。だから」
「俺はお話屋に入った覚えはありませんよ」
二人が止めようとしてくるがきっぱりと断る。俺の意識は完全に瑠璃ちゃんを救う方に向いていた。
「そうか」
瀬古さんは資料をまとめデスクに座る。
「君のその感情は、操られたものではないと言い切れるかい」
重く低い声で尋ねられる。
「紛れもない、俺の本心です」
はあ、とため息をつかれると瀬古さんは呆れるように助言をした。
「なんとかしてじゃダメだぞ学生君。明確な目標を設定してから動きなさい」
天が訝し気な目で瀬古さんを見た。お前が言うかと言いたげな表情だった。
「もちろん和俊さんも行くだろう?」
「……え?」
「え?じゃないさ。彼女に好き勝手させた責任はあなたにもある。彼女ともう一度向き合って償うべきだ」
「……そうですね。私も行きます」
「天ちゃん。彼らのお守りをしてあげなさい」
「はい。じゃあ、今日の内に……」
「え、早くない?」
天はそそくさと出発の準備をしている。細長い布袋を背負って、いつでも出れると意思表示した。
「こうしてる間にも眠らされる人が出るかもじゃないですか。その人も帰したらまた同じことを繰り返すかもしれない……」
天は和俊さんを睨んでいる。当の和俊さんは申し訳なさそうに目線を逸らした。
「……とりあえず。目標は、瑠璃ちゃんと話して家族ごっこを終わらせること。これを第一にします」
時刻は六時を回っている。陽は落ちかけているが、瀬古さんを除いた三人で再びあの家へ向かった。
黒い直線の上を進む。
「……罪悪感は、あるんだ」
彼女の部屋までの道のり。その途中でぽつりぽつりと和俊さんは話す。
「関係のない人を姉のためだけに巻き込んだこと。君たちも含めて。本当に申し訳ないと思っている」
「……何回も謝罪は聞きましたから」
ここに来てからというもの和俊さんはずっと申し訳ない、申し訳ないと連呼していた。気持ちはわかるが、少しうざったい。
「でも何の関わりもなかった君が姉を救ってくれるというのは、ありがたいんだが、未だに理由がわからない。君は本心から助けたいと言っていたが、本当にそうなのか?」
「だからそうですって。それに関係なくないですよ。巻き込まれた時点で俺も当事者です。瑠璃ちゃん……あ、すいません。ずっとちゃん付けで呼んでしまって」
「いや、大丈夫だよ」
「はい……瑠璃ちゃんは、誰からも助けてもらえなかったからあんな状態になったわけじゃないですか。瀬古さんは死んだ人は変わらないって言っていたけど、絶対に瑠璃ちゃんの心は生きてる。それならまだ、助けられますよ」
「怖くないのか?あの惨状を見て、それでも助けたいと思ってくれたのか?」
「怖いは怖いですけど、天がいますから。それに助けたいでしょ。子どもが苦しんでるのを見て放っておくほど、俺は落ちぶれちゃいないですよ」
「……そうか。君は強いな」
和俊さんは自嘲した。
「私も君のような心を持っていたら、変わっていたのだろうか」
俺は何も返さない。
新聞部の性なのか。瑠璃ちゃんを助けたいという気持ちは九割で、一割くらいは、さらにこの世界の最奥を見てみたいといういかがわしい好奇心があったのだった。
「———ん」
後ろで着いて来ていた天が立ち止まった。
「天?」
呼びかけるも反応がない。天は目を閉じてその場に立ち尽くしていた。何か音を聞いているようだ。
「—来る」
目を見開いてそう呟いたかと思うと一瞬で俺と和俊さんの前へ出た。刀は既に抜かれている。
天は横一線に空気を切り裂く。きぃん、という音が果てしなく響いていった。
すると前方の暗闇から、床から、壁から爛れた肌の腕の群れが湧き始めた。異形の虫はぞろぞろと擦り寄ってくる。その醜さは何度見ても耐えられるものではない。
「この腕は全部、今まで取り込まれた人のものなんだよな」
そう。虫という言葉で一蹴してはいけない。ここに現れている腕は全て、彼女が家族として迎え入れ、そして処分された人々だ。当の人々の身体は眠っている。だから瑠璃ちゃんの支配を解けば、この人たちも助かるかもしれないのだ。
「天。この腕は……」
「助けたいと言うんだろう。わかっている」
ふっ、という短い呼吸は戦うための切り替えのサイン。
「動きは止めておく。そのうちに行け」
天に肩を叩かれた。
目の前には続々と集まってくる腕。天は高速で何かを唱えている。恐らく昨日と同じ——
「肋の蜘蛛」
刀身から網目状の光が放たれる。その矛先は腕の一人一人。麻痺した彼らは目標を索敵することも構わずに倒れていく。
「頼んだ!和俊さん、行きましょう!」
「……え、ええ」
転がる腕を横目に走り去る。いくつもの道に分かれているのが段々見えてくる。しかしどうせ彼女は俺たちを自室へ迎え入れるはず。なんの迷いもなく、ただ真っすぐに突き進むしかないのだった。
近衛さんは、どうしてこんなにも優しいんだろう。わたしはわからない。そこまでして誰かを助けたいと思う理由が見当たらない。ただ巻き込まれただけなのに。しかも生きていないモノ相手に。
わたしが今こうしているのは、ただ生きるための仕事でしかない。今の生活を続けるには、こうして何かを斬っていくしかない。
わからない。今の世界で生きている人のことはわかってきたはずなのに、近衛さんのことだけがわからない。いくら当事者といったって、関係なんてそれきりでしかない。でもあの人は、その程度の関係の人に対して酷く、感情を揺れ動かされている。
共感性の特に強い現代人なだけなのか、ただのかっこつけなのか。
それとも本当に、純粋にその気持ちだけを持って走っているのか。
わからない。わからない。でも、同じなのだろうか。不意に思い出すのは昨日のこと。
連れ去られた彼を助ける際に抱いた、どうしても助けなきゃいけないという感情と似ているのだろうか。罪悪感でも義務感でもなかった、出所のわからないあの感情と同じなのか。
どうして近衛さんのことをこんなに考えるのだろう。自分のことしか考えられなかったわたしが、どうして———、
「———時間だ」
男性二人が完全に腕の補足圏内から脱したことを確認した剣女の意識が戻った。同時に腕はもぞもぞと行進を再開する。
剣女の頭には近衛槙の、彼らも助けたいと訴えてきた顔が張り付いている。実際に遂行する当人からすれば殺さず生かせという器用さを要する命令は迷惑極まりないものだった。本当ならこんな烏合の衆はすぐにでも殲滅してあの幼子も斬り、それでこの仕事も終いにしてやりたい。しかし。
「それでは納得しないだろう。なら大人しく従うのが吉か」
近衛槙の案にはとりあえず乗ることを決めた。しかしその上での懸念は三つある。
一つはこの腕の群衆が二人を追いかけること。幸い腕の全てが剣女の方に意識を向けている。彼女が異端であることは変わりなく、正常に防衛機構は働いているようだった。この中の一匹だけでも逃してしまえば、それだけで彼らの作戦に影響が出るだろう。なぜならあの二人は弱いからだ。幸い剣女には一匹残さずこの場に押しとどめる策がある。一つ目の懸念はそれで除外できる。
もう一つは件の少女が牙を向けること。対話に失敗し、交渉の余地がないと判断できたころには、あの二人の命はもうないだろう。
(まあ、死んだところで私たちに支障はない)
除外する。近衛槙自身が決めたこと。それにただ従うだけ。その後にどうなろうが、剣女の知ったことではなかった。
そしてもう一つは……既に対策済みだった。
(せいぜい、上手くやればいい)
剣を引き抜く。そして、ひざまづく。剣を献上するように、横に向ける。
「見える。走る獣が見える」
既に外法の解放を唱え始めていた。
「ここに橋を架ける」
刀身の腹。それは銀色の橋。その上を一匹の獣が走っているように見えた。
「見えるは在らず、されど」
無論。見えているだけで実際には何も現れていない。だが。
「只これより有るは、夢、幻」
見えているのなら、それでいい。麒麟の走った道に煙が立ち込めているのが見えたのなら、それだけでいい。腕に視覚があるかは知る由もないが。
「流るるは、
世界は銀色一色に染まった。どこまでも澄み切った、果てのない、目が痛むほどの銀。
刀身にはその色によって背景と溶け込ませ、尺を読みにくくするという工夫がある。しかしこの外法はその逆。刀身の色が世界を侵食する。
剣から滲み出た煙は瞬く間に廊下だったはずの場所を、五感を捻じ曲げるほどの銀一色の世界へと変容させたのだ。
完全に刀が見えなくなったのは勿論のこと、もう一つこの外法には目的がある。
それは場所の錯誤。及び固定。腕はこの銀の世界に、閉じ込められた。解かれない限りは絶対にその外へ出ることはできない。ましてや感知できない外の存在など、どう探せるものか。
「っはあ、」
当然、負担はかかる。天は刀を支えに何とか立つ。戦う必要はない。全てが終わるまで、待てばいい。
目があるのか周囲を見渡すような素振りを見せていた腕たちは、いずれ再び天へと目標を変えた。そして行進を再開する。
天は刀を引き抜き、ふらふらの身体でも構えをとった。
「なるべく、死なないで」
銀世界が消えるか、彼らの交渉が終わるか。
少なくとも天にとっては、僅かな体力との勝負でしかなかった。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
進み始めて十数分。さっきまで床や壁が軋むような音が鳴り続けていたが突然聞こえなくなった。後ろを見ても奥は暗く確認のしようがない。天が何かしたのか……?
「……行きましょう」
言われた通り、早く会わないと。
「———うお!?」
再び前を見て進もうとした瞬間、壁にぶつかった。この感じ、前にも。
「これは……」
「……出迎えてくれたって感じですかね」
その壁には取っ手があった。彼女の部屋は、すぐそこにある。
あの子供部屋に帰ってきた。中央には彼女がにまにまとした笑顔を見せながら立っていた。
「おかえり」
ただ一言。そう言うと瑠璃ちゃんは近づいてきた。様子は会ったばかりの、遊びたがりな少女のままだった。何も変わっているところは見受けられない。今のところは。
「瑠璃ちゃん」
しゃがんで彼女と同じ視点に立つ。対話を試みる。絶対に、何らかの変化があるはずだ。
「遊ぼ」
「俺は君とは遊べない」
「遊ぼ」
「話をしよう」
「遊ぼ」
……ダメだ。何度声をかけても同じ言葉しか繰り返してこない。
「遊ぼ、遊ぼ」
「瑠璃ちゃん。俺は」
「遊ぼ、遊ぼ、遊ぼ」
「俺は、君の家族じゃないんだよ」
「……」
彼女の呼びかけが止まる。動きも止まる。時間が静止したように、ぴたりと。
「瑠璃ちゃん。もうやめよう、こんなこと。ずっと偽物の家族ごっこをしていたら、君は報われないままだ」
瑠璃ちゃんは動かない。
「瑠璃ちゃん……瑠璃ちゃん!」
こっちの呼びかけに全く応えてくれない。
「どうして……」
「近衛くん」
後ろから和俊さんが話しかける。
「和俊さん、お願いです。あなたの言葉が必要だ」
振り向いて立ち尽くしたままの彼に話しかける。唯一の家族である和俊さんの言葉ならきっと。
「報われないとは、なんだ」
「……え?」
「姉にとっての幸福は決まっている。それは現状維持だ。ずっとこのままなら彼女は永遠に幸せになれる」
和俊さんはずっと立ったまま、視線はどこか別の方向へと追いやっている。どんな表情をしているのかは俺が立って見てみないとわからない。
「報われない? 違う。姉は既に、報われている」
「……何、言ってるんだ」
苛立つ。あの虐待の苦しみを知っている和俊さん自身が、瑠璃ちゃんの境遇を良いと認める? そんなふざけたことがあってたまるか。
「やはり君もダメだ。申し訳ないとは思っている」
「ふざけんな! あんた、まだ瑠璃ちゃんを……!」
「お前に姉さんの何がわかる? 姉さんのことを分かっているのは、私だけだ」
「わかってないのはあんたの方だろ!」
立ち上がってその厚顔を見る。
酷く、冷たい視線を受けた。
悟ったような目。諦めの目。不動の覚悟。
「本当にうるさいな君は。せいぜい姉さんを楽しませてやってくれ」
そして背後に、数多の手が伸びてきていることに俺は気づかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます