3-5

ピアノの外に転がり落ちるかに思えた少年のカラダは、しかし、前のめりに、ピアノのヘリに下腹を引っかけた状態で2つ折りにブラ下がっていた。

関節や骨がなくなって、軟体動物にでもなってしまったかのようだ。


その状態から、両手を真下に伸ばしつつ、グネグネと床に這いおりようとしているのだ。


ついに、その両手が床にペタリとたどりつくと、その手を交互に前方に這い進めていく。

全身をヘビのように引きずりながら。


「け、圭斗けいと……?」

千影ちかげは、ガクゼンと息をのんだ。


少年は、真紅の粘液にまみれた小さな顔を上げて、薄いクチビルを三日月のカタチにニンマリとゆがめた。


「ひ、ひいいいいいーっ!?」

千影ちかげは、ほとんど無意識な動作で、陽向ひなたの背後にサッと身を隠した。

千影ちかげの足元にいた白い小ウサギは、ふるえあがって垂直にピョンと飛び跳ねると、その千影ちかげの腕に四肢ししをシガミつかせた。


陽向ひなたは、両手を胸の前に合わせ、九つの印を結びながら九字くじを素早く口ずさむ。

臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・前・行りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう

 ……急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう

続けざまに、両方の薬指と小指を組み合わせ、親指の側面どうしをつけ、ぴんと伸ばした中指の先端の腹を押し付け合いながら、人さし指は離してゆるりと曲げて。

三股さんこの印を結ぶなり、涼やかに声をはった。

「オン・シュチリ・キャラロハ・ウンケンソワカ」


ピアノの中から無数のピアノ線がピーンと伸びて、またたく間に少年のカラダに巻き付いた。

そして、キュキュキュキュッ……と耳ざわりな金属音をたてながら、伸びきったゴムが収縮するようにイッキにピアノの中に戻っていく。


自動的に、少年のカラダも、真紅の粘液の池に引きずり戻された。


「タス……ケ……テ……っ!」

少年は、ピアノのヘリに両手でスガリつきながら、かろうじて顔だけを池の上にのぞかせて、くぐもった悲鳴をあげた。


「ななな、なんてことするんだ、陽向ひなた!? これじゃあ、おぼれ死んじゃうよ!」

千影ちかげは、双子の弟の背中に怒鳴った。

「夢の中で死んだら、夢を見ている本人も死んじまうんだぞ!?」


陽向ひなたは、クルリと振り返った。

「"彼"は、もう、とっくに死んでる。残念だけど」


「は!? なにバカなことを……」


「それに、彼は圭斗けいとくんじゃないよ」


「え……っ?」


陽向ひなたは、片方の手を祈りの形に目の前に立てると、千影ちかげの腕にシガミついている白い小ウサギのアタマにもう片方の手を乗せて、

「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・

 マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」

と、涼やかに真言をささやいた。


とたんに、まぶしい金色の光が、小ウサギを包み込んだ。


千影ちかげは、思わずギュッと目を閉じた。

次に目を開けたとき、千影ちかげの両腕の中には、高校の制服姿の圭斗けいとが、いわゆる『お姫様ダッコ』のテイで抱きあげられていた。

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