第30話 ささやかなお披露目

ひと月と経たずに南の領地に戻ってきたのには訳がある。


「今日は、金木犀から抽出したオイルを使いますわね」

甘く上品な香りが辺りを漂う。


長旅で疲れた身体を湯浴みしてから、この日のために準備をしていたドレスに身を包んだ。


レーラはヘアアレンジもメイクも屋敷一上手で、彼女の手にかかればどんな令嬢も垢抜けてしまうほどだった。

打ち合わせ通り、複雑に編み込まれた髪にパールをあしらったヘアアクセサリーをふんだんに差し込んでゆく。

パールが反射させるまろやかな光は、銀糸で編み込んだ純白のドレスを引き立てる。


「さあ、お嬢様。できあがりました。世界一お美しいですよ」

私はレーラの言葉に押され、顎を引いて背筋を伸ばす。


扉を開くと、部屋の前で待っていたカイエンが手を伸ばす。

「もう…言葉が出てきません…その、美し過ぎて…」

「カイエン様も似合ってますわ。とても素敵です」


その手を取ると、ホールに向かって伸びる幅の広い階段をゆっくりと一段ずつ降りていく。


わあ、という声。ため息。


一人一人見渡すと、皆目尻に深い皺が刻まれた老齢の見慣れた使用人たちの顔。


「お嬢様」「セレン様」「お綺麗だわ」

そんな声がたくさん聞こえてくる。


私はどうしても花嫁姿を別邸の使用人たちに見せたかった。

その提案をしてくれたのは他ならぬカイエンだった。


「皆さん、今日は私達のために仕事の手を止め、集まってくださってありがとうございます。私は皆さんに育てていただいたも同然と思っております。皆さんがいたから今の私があるのです」


シェフはぐすぐすと泣き出してしまう。

隣にいたナダエという老齢の侍女がハンカチを差し出していた。


「僕はまだ未熟者ですが、セレン様を生涯守り抜きます。本日は僕達のわがままに付き合ってくださり、ありがとうございます」


使用人に対しても、カイエンの態度は柔らかい。


わああ!と歓声が沸き起こる。

自然に拍手が降り注ぐ。


私はカイエンの手を離れ、爺やのところへ向かった。


「約束は守ってくれなきゃ、嫌だもの。ね、爺や」

「爺はしかと目に焼きつけましたぞ。なんという幸福。これでいつお迎えが来てもいいですわい」

「縁起でもないこと言わないで頂戴ね…」

爺やは、ほっほっと笑う。


シェフがおいおい泣きながらやって来た。

この日のために、二人の思い出のウィークエンドを焼いてくれ、懐かしい匂いのするハーブティーを用意してくれたことに感謝を伝えると、シェフはハンカチで顔を覆う。

「もう、泣きすぎよ…」


私はゆっくり一人ずつ挨拶してゆく。


爺やは目に涙をいっぱい溜めて、それでも懸命に私の姿を追う。


なんとも幸せな時間が過ぎていった。


カイエンは早速女性陣から質問攻めにあっていた。

白髪交じりの彼女達は大半が夫に先立たれている。

若いカイエンの登場に、「心なしか少女時代に戻ったみたい」と言って浮き足立っていた。


(楽しんでくれてよかった)


皆が祝福してくれる。

こんなに嬉しいことはない。

ニール公爵やパルマにどれだけ嫌われようとも、俯かずに私を大事に思ってくれる人に囲まれて、カイエンと共に光の道を歩いて行きたい。

愛しい人の横顔を見ながら、私は決意を新たにする。



こうして、楽しい時間は更けていった。




長期の滞在は難しかったため、翌朝には出立することになった。


「爺や、どうか元気で。また都合をつけて会いに来ますわ」

「こんな老いぼれにしょっちゅう会いに来なくて良いのですぞ」

「そんな寂しいことを言わないで頂戴…」

「爺は元気ですから。ご心配なく。次はお子の姿を見せに来てくださいませ」

と言われて顔が熱くなる。


「カイエン様、お嬢様はこのように強く見えても実は大変な寂しがりなのです。どうかあっちに行けと言われても抱きしめて差し上げてください」

そう言って爺やは頭を下げた。

「心得ました」

「それから、夜寝るときはトントンして差しあげるとよく寝ますぞ」

人差し指をピッと突き上げてにこやかに言う。

「爺や…何度も言うけど、私もう子どもじゃないのよ…」


カイエンはくつくつと笑う。

「それも心得ました」

「もう!カイエン様まで!」


馬車に乗り込む時、いつものように後ろ髪を引かれる。

(ここに来ると、帰りたくなくなってしまう)


爺やはいつまでも私たちを見つめていた。

私も屋敷が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見つめていた。


「カイエン様、忙しい合間を縫ってこのような時間を作ってくださり、本当にありがとうございました」

「僕もセレン様の大切な方達にご挨拶とお披露目ができて、こんなに嬉しいことはありません」

「あの…」

モジモジしていると、カイエンは隣の席に腰を下ろしてくれた。

ヘーゼルの瞳が私を優しく見つめる。


(綺麗な瞳…)

思わず、カイエンの頬にそっと触れる。


「どうかされましたか?」

「…なぜかしら?とても触れたくなって…」

「セレン様…」


カイエンが耳元で囁いた言葉に顔が熱くなる。

ゆっくりと重なる唇の熱に溶けてしまわないよう、必死に意識を手繰り寄せた。


突然、ガタッと馬車が揺れてカイエンが私に覆いかぶさった。

「!」

心臓が跳ね上がったのは、びっくりしたからか、それとも…


その揺れる瞳が、私をおかしくさせる。

そして、鎖骨にくちづけされた。


「ッ…!」


その時、御者がノックをして声をかける。

「すみません。大きな石に乗り上げてしまって…すぐにどかしますから、少々お待ちいただけますか?」

私は平静を装ったが、どうしても声が上ずってしまう。

「え、ええ。わかったわ」


カイエンに起こしてもらい、居住まいを正す。

「お怪我は?」

「平気です」


以降、馬車が出発しても暫く無言が続いた。

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