第29話 午睡
響くノック。
反射的に背筋が伸びる。
「お嬢様、カイエン様がいらっしゃいました」
レーラはそう言ってから、テーブルの上のカップを片付けた。
珍しく、眠気覚ましに飲んでいたコーヒーはすっかり空になっていた。
「カイエン様にお待ちいただいて、少しお休みになりますか?」
「大丈夫よ、ありがとう。お通しして」
婚約パーティが終わってから数日間、出席者にお詫び状をしたため続けた。
(身体がバキバキだわ…)
私たちのせいではないかもしれないが、祝いの席が台無しになったのも事実だ。
後日、パルマの父君、ロセッティ男爵が謝罪に来たが、婚約パーティをめちゃくちゃにしたことについて、随分と要領の得ない釈明が続いた。
「泣き喚いて帰ってきたと思ったら、娘の身体中に変な文字が書かれておって、消えんのです。パルマに聞いても泣くばかりで…」
と言っていたが、父が
「それで?」
と言うとロセッティ男爵は明らかにたじろいだ。
そして父は数年来の商談相手との取引を中断した。
これにはロセッティ男爵も大慌てで、何とか続けてもらえないかと懇願していたが
「そちらの心がけ次第ですな」
と父が言うと、ロセッティ男爵は肩を落として帰って行った。
パルマはどうやら呪いに関して口をつぐんでいるようだ。
(まあ、それはそうよね)
「全く、商売の心配とは…本当に謝罪に来たとは思えないな」
静かに父は怒っていた。
私はと言うと、体中の漢字が嘘のように消えた。
長年に亘り私を縛っていたもの。
しかし、その最後はあっけなかった。
ただ、太ももには"呪"の一字がごく薄く残った。
長い間書かれた文字は色素沈着を起こしたようだが、私はパルマの念の強さにゾッとした。
身体をうんと伸ばし、カイエンが待つ応接間へ向かう。
軽くノックをして扉を開けると、そこには愛しい人が待っていて心が跳ねる。
「カイエン様、お会いしたかったですわ。婚約パーティ以来ですね」
「招待者全員にお詫び状を書いてくださったのでしょう?セレン様が一任してくださった事に心より感謝申し上げます。お陰で僕の仕事も一区切り着きましたので、本日は心置きなくセレン様と馬車に揺られることができます」
カイエンは私の手を取り、お茶もそこそこに馬車に向かった。
馬車に乗り込むなり
「眠っていても構わないですよ」
と言ってくれたが、カイエンだって疲れているはずだった。
南の領地に向けて走る馬車。
カイエンは時折目を擦る。
「少し…休みませんか、お互い」
言って向かい合わせだった席を立ち、カイエンの隣に座る。
頬に手が伸びる。
午後の日差しの中、はじめて唇を重ねた。
まるでそうすることが自然かのように。
「ずるいことをしました」
「?」
「僕が自分自身を止められなくても、今なら貴方は何も咎めないでしょう?」
熱っぽい声が耳にかかる。
「疲れているのでしょう?」
カイエンはぐっと堪えたが、やがてこくりと頷く。
「…少しだけ…目を瞑りましょう」
まどろみはすぐに訪れる。
(幸せだ)
鼻をくすぐるカイエンの匂いも、微かな吐息も、この人は私の隣にいてくれるという証明のようだった。
指の間を骨っぽい指が滑ってくる。
私たちはお互いの肩に頭を預け、ふわふわとした不思議な気持ちで、なんだかとっても贅沢な午睡に身を投じた。
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