第9話 酷い約束

「僕は幸せなのです。貴方が好きなことで、僕は幸せです」


濁りのない言葉が私の心を抉った。

胸が苦しい。

私には、彼の手を取り歩んでいく事が、どうしてもできない。

貴方が求めれば求めるほど、私は差し伸べられた手を振り解くだろう。


「……甘味を…食べにいきましょう。約束した、いちごのケーキを」

真っ赤になった彼の目を見て、世界の理に反した様な気分にさえなった。

なぜ、そんなに純真な目をするのだろう。

私は、無垢で汚れのない気持ちを向けられるような人間じゃない。

彼は然るべきご令嬢と真綿のような愛で結ばれるべきだーーいや、違う。そんなもの言い訳だ。本当は、私が単に彼の手を取るのが怖いだけなのだ。


「…ごめんなさい」

「セレン様…どうか、臆病な僕が振り絞った勇気を後悔に変えないで下さい。これで貴方に会えなくなってしまうのは……嫌だ」

大きな犬の様にしゅんとして目に涙を溜めている。


「どうしてっ…どうして私の事を好きになってしまったの…ああっ…」


私は涙が落ちる前に踵を返して馬車に乗り込んだ。


「……どんな人よりも、貴方だけはだめなのです。貴方と結ばれる位なら、知らない誰かの妻になる方がマシです」

「セレン様…僕のことがそんなにお嫌いですか…?」

「酷い質問だわ」


いいえ、非道いのは私。

貴方の気持ちを何となく気づきながら、今日まで来てしまった。


(だから手紙を出さなかったのに。どうしてこうも偶然会ってしまうの)


貴方の優しさに溺れてしまったら、私はきっと貴方に嫌われたくなくなってしまうから。

沈んでいく魚の様に、水面の眩しさに焦がれながら深く闇に落ちて、きっともう戻れない。


「もう二度と会わない。…会えません」

「…想い続けることが叶わないなら、せめて一つだけ僕のわがままを聞いてくれませんか?」

「私ができることなら」


彼は決して私に触れないけれど、まるで腕を掴まれているみたいだ。


「満月の日に、この場所で僕とタルトが夜空を眺める許可をください」

「……貴方は、ずるい人です」


そんな事を言われたら、私はきっと満月の夜にここへ来てしまう。

それは緩く結ばれた約束だ。まるで首に一本かけられた刺繍糸の様な。

首を絞めるには心許無く、忘れて過ごすには苦しすぎる。

生かさず殺さず、確実に私の心を蝕んでいくだろう。


無性にタルトを撫でたくなって作った首輪と重なる。

気づいたら貴方を思いながら刺繍をしていた。

渡すつもりもないのに刺した刺繍。

けれど最後にどうしても渡したかった複雑な気持ち。

捨てきれなくて、持ち歩いて馬鹿みたいだ。


(なんなのだろう、この心の騒めきは)


きゅんと細く鳴いたタルトを背に、振り返らずその場を後にした。


ガラガラと音を立てているのは馬車の車輪か、それとも淡く儚く夢見た何かか。


(あのヘーゼルの瞳だけはどうにもダメだわ。心の中を見透かされそうになる)


ぎゅうと胸を掴んだ。

決して触れなかったあの手はマメだらけで私の傷だらけの手と似ている、と思った。

だから、彼となら共に人生を歩んでいけるかもしれないーー

「でも、貴方が私に向ける目が変わってしまうことが堪らなく怖いのよ」



誰よりも信じたい人を信じきれない。

非道い女だ。

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