Ep36. Misbuttoning of buttons

 その日、フィンは起きぬけにウォルケンシュタイン家の第一夫人から殊更叱られたのだという。

 叱られた理由は些細なことで忘れたけれど、たくさん罵倒を浴びせられて、朝から気分が重かった。ゆえにクロエを誘ってどこか遠くへいこうと馬車に乗った。この馬車は、なにかとふたりに甘いウォルケンシュタイン家の庭師が、こっそり手配してくれたものだったそう。

 とくにどこへ行くと決めていたわけではなかった。

 けれど馬車に乗り込んだ際、フィンは第一夫人の小言のなかに聞いた「お前の卑しい母親はサンレオーネで死んでくれたのに」というぼやきを思い出した。フィンにとって生みの母の存在は遠く、日ごろ思い出すことはなかったけれど、夫人の口から母の悪口を聞けばやっぱりおもしろくなかった。

 サンレオーネに行ったら、母に会えるかもしれない──と思った。


 ふたりにとっては初めてのサンレオーネ。

 正確には、生後半年のころ──あの大地震が起こったとき、彼らは母親に抱かれて神殿にいた。けれどフィンもクロエも当時の記憶はない。ゆえにそのときはただ、母の最期の場所に行ってみたくて、右も左も分からぬまま西側の森へ入った。

 別称『迷いの森』とされるビートルの森。

 鬱蒼と覆い茂る木々によって晴天の空は隠され、午前中だというのに冬間の夕方かとおもうほど薄暗かった。ふたりは身を寄せ合って、手をつなぎながらひたすら歩く。歩く。あるく。

 異変は、森のなかから起こった。


『おかえり。わたしの子』


 と、フィンの耳に声が届いたのだという。

 周囲にはだれもいない。となりのクロエには聞こえていないのか、周囲の草花に夢中でフィンの方など見向きもしない。

『こっちよ』

『そう、そのまま』

『もうすぐ』

 聞こえるまま。

 フィンはクロエの手を引いて、声がみちびく方へひたすら歩いた。

 しばらく進むと石造りの穴があった。地下への階段が暗闇に沈んでいる。クロエは「こわい」と躊躇したがフィンは半ば強引に下へ降りた。なぜなら声が、下へみちびくから。──


「あそこはいろんなこと教えてくれたんだ」

 と、フィンは言った。

 教えてくれたのは母親か、とヴィンセントがたずねるもフィンは首をかしげた。母親という感じはしなかったという。あえていうなら話しかけてきたのは「サンレオーネ」だとも。

「ああいう変なことができるようになったのもその頃からだよ。だから、去年の夏くらい」

「ほかにはどんなことが?」

「うーん。動物が言うことを聞いたり、ちょっと遠くのことが見えたり……石がぷかぷか浮くこともあったよ。でもそんなの出来たりできなかったりで、さっきみたいに『やろう』と思ってできたのは初めてだった」

「ぼくも何度も見た。フィンはすごいよ」

「く、クロエさまは何か──ありますか。声が聞こえるとか、啓示が下りてくるなど」

「なぁんにも。おっかしいくらい」

「…………」

「それでね、あのね。さっきのはね、止まれって意味。もっと長く止まるイメージだったんだけど、やっぱりいきなりは難しいみたいだ」

 フィンは手のひらをぐっぱしてクロエと笑い合う。

 この辺りから、ヴィンセントは気づき始めていた。些細な掛け違いによって引き起ったおそろしい現実に。思案により黙りこくったヴィンセントの腕を引き、子どもたちは森の出口から石舞台の裏側へ。

 やがて花冠をつくった原っぱに戻ってくると、クロエはそこに放置したままの花冠を拾い上げて、ヴィンセントの頭に乗せた。

「ヴィンス、いつもありがとう」

「オレたちからのプレゼント!」

 すっかり笑顔になった子どもたち。

 なんのプレゼントかと聞けば、いつもいっしょに遊んでくれるお礼とのこと。ヴィンセントからすれば中央閣府からの言いつけで供しているにすぎないのに、彼らは純粋に『一番いっしょに遊んでくれる大人』とおもっているらしい。

 ヴィンセントはすこし泣きそうな顔でふたりを抱き寄せた。子どもらしい柔い髪の毛が頬に当たるのを感じた瞬間から、その胸にひとつの覚悟を決める。

「クロエさま、フィン。ありがとう」

「うれしい?」

「うれしい?」

「ああ、とっても嬉しい」

「やったな!」

「うん。やった!」

 と、喜ぶフィンとクロエ。

 ヴィンセントはふたりの頭を両手で抱え、おのれの顔に寄せた。

 それから小指を立ててふたりの顔を見比べる。

「この花冠に免じて、今日のお小言はなしにしよう。その代わりこのヴィンスと三つ、約束だ。いいかい、まずひとつ」

「ひとつ」

「ヴィンスになにも言わずに、遠くへ行かない」

「ヴィンスになにも言わずに、遠くへ行かない」

 クロエが復唱する。

 ふたつ、とヴィンセントはつづけた。

「サンレオーネで遊ぶときは、かならずヴィンスといっしょ」

「サンレオーネで遊ぶときは、かならずヴィンスといっしょ!」

 フィンが復唱する。

 みっつ、とヴィンセントはつづけた。


「フィンの力のことは、われわれ三人だけの秘密」


「!」

 フィンがハッと顔をあげた。

 クロエは不安げにヴィンセントを見る。

「もうだれかに言った?」

「ううん。言ってない」

「約束できるか?」

「うん」

 フィンはめずらしく神妙な面持ちになって、言った。

「──オレの力のことは、オレとクロエと、ヴィンスだけの秘密」

 と。

 ヴィンセントは噛み締めるようにうなずく。いま、自身が考える仮説が正しければ、これはエンデランド史上最大のスキャンダルである。およそ取り返しのつかぬ──まさか、まさか六年前のあの時に、赤子がなんて。

 およそひと月後の年始には、クロエの晴れ舞台となる黙示の儀式がやってくる。

 レオナ二世がいなくなってから、島民たちは、これまで欠かさずいただいてきた『神の導き』がないことで、不安に押し潰されそうな毎日を過ごしている。

 言葉を話せるようになったならば、即刻年始啓示を再開してほしい──とプリメール大聖堂の司教グレンラスカの元へ信者が押しかけたのが、ふた月前のこと。これ以上待たせるわけにもいかぬ、というのが閣府長スカルトバッハの答えであった。

 ──クロエが無力だなど、疑いもせずに。

 このままでは、クロエはレオナ三世の名を冠していながら啓示を受け取れないという、無力な王の烙印を捺されてしまう。だからといって真実を明かせば、たちまち島中が大混乱となるだろう。なによりフィンのことだ。レオナ三世のお役目から逃げるべく島を出ていってしまうかもしれない。

 愛らしいこの子らに、民の身勝手な期待や悪意など、押し付けてはならぬ。

 ヴィンセントは繰り返す。

「いいね、ほかの人間には内緒の話だ。このヴィンスがいつかいなくなったならそのときは、我がクロムウェルの後代に託そう。君たちはなんの心配もいらない」

「ヴィンス、いなくなっちゃうの?」

「いつかの話です。それまでには君たちも立派な大人になって、このヴィンスの助けなど必要なくなる。大丈夫」

 重ねた三つの約束事。

 子どもたちはまだ、その約束によって守られたものが何かを知らない。けれどこの約束はなにかとんでもないものだというのは薄々分かっていた。

 以来、子どもたちはなにかあると、かならずシャムール五代目地区長に相談するようになる。──

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