Ep3. Impulse

 アナトリア地区長の家は、平屋建ての木造建築であった。屋根は草かなにかで装飾されている。なんの草か、と尋ねると叢雲から「ヒノキの樹皮です。檜皮葺ひわだぶきという工法なんですよ」と教えられた。地区長の家というからには、もっと絢爛豪華な派手めの様相を想像していただけに、この謙虚な佇まいにはおどろいた。

 引佐曰く「これぞワビサビ」という感性らしい。

 屋内も総じて金色装飾は微塵もなく、藺草で編まれた床敷に花瓶がひとつ──といった、引き算の美。家そのものが『静』の一字を体現していた。

 案内役の侍女が引戸──フスマというらしい──越しに声をかける。中から返事がする。

 襖がひらく。

 すでに正座にて客の来訪を待つ主人のすがたもまた『静』である。


「どうぞ入られよ。魔の海峡をよくぞ生還なされた」


 右目に深く傷をつけた隻眼の彼こそ、アナトリア地区長その人だった。


 ※

 蒼月剣十郎──。

 男はそう名乗った。どっしりと鎮座するその様は強者そのもの。かつて多少なり戦場に赴いた経験のあるフェリオにとっては、彼の風格が本物であることは一目でわかる。

 蒼月の左目がぎらりと光る。フェリオを品定めする目つきであった。

「デュシス海域の大嵐に巻き込まれたようだ、と刑部から聞いておる。よくぞ助かりましたな」

「……すべてにおいて運が良かった。近くにボートがあったのも、嵐からまもなく水軍の彼らに発見されたのも。彼らには感謝してもしきれません」

「この島の周囲、とくにノトシスからデュシスにかけての海域はひじょうに複雑な潮流であるらしい。刑部水軍ほどの腕でなければたちまち波に呑まれてしまう。そちらの船乗りたちは全滅したと聞きました。お気の毒なことです」

「わたしがむりやりお願いしてしまった。彼らにはまことに申し訳ないことをしたとおもっている。とはいえ、ここへ来ることは譲れなかった。いまはただ彼らの死を悼むのみです」

「この島への渡航には、よほどの覚悟がおありのご様子。その心は?」

「いや。ただ──四十も過ぎた老体、死にゆくばかりとなった頃よりこの地を欲するようになった。エンデランドについては幼いころ、母より聞いたことがあったゆえ」

「なるほど。して、この地でなにを?」

「とくに考えていなかった。ただ漠然と、大地を踏み、五感で島を感じたいと──しいて言うなら、冥途の土産に見聞録でもしたためられたらよいと思っていたが」

「なるほど。……見たところ他意はなさそうだ」

 蒼月は唸るようにつぶやいた。

 ぎろりと天井をにらみつけ、パン、と手を叩く。直後天井から影がふたつ降ってきた。とつぜんのことに身じろぎひとつできぬフェリオは、一拍置いてようやく現状を把握した。

 蒼月の前にふたりの人間が膝をつき、頭を垂れている。

 ひとりは若いながら聡明な面差しの青年で、もうひとりは利発そうな少年である。蒼月はふたりを前にゆっくりと立ち上がった。

「この件、閣府の査問にかける。由太夫よしだゆう比榮ひえい。この者を閣府まで案内してやれ」

「御意」

 青年が頭を下げた。

 が、フェリオは眉を下げて刑部を見る。

「さ、査問というと──わたしはなにか罰を受けるのか」

「いやいや。大陸からのマレビトってのァそうそうないのでね、この島に滞在させることひとつにも慎重にならざるを得ないんだよ。とはいえ、我が刑部水軍や蒼月地区長が口添えするんだ。まず問題ないだろう」

「そう、そうか。……」

 フェリオはちらりと若者ふたりへ視線を移した。

「面倒をかける」

「いえ。どうぞ、私のことは由太夫と。こちらは比榮。我らはアナトリア地区兵団の者です」

「地区兵団──そんなものがあるのか」

「地区内の治安を守るのが務めです。さあ、参りましょう」

 といって、由太夫は先導して歩き出した。フェリオを挟んで比榮があとからつづく。対して刑部水軍一行と蒼月は動かない。これまでさんざん世話になった刑部水軍と別れることに多少の不安をおぼえたフェリオは、一度踏み出した足を止めて振り返った。

 刑部はひょいと手を挙げる。

「我々もあとから中央閣府に赴く。そう時をかけずに滞在許可が出るだろう。そのときはまた話そうぜ」

「……ありがとう。いろいろと、ほんとうに。イナサも、ムラクモも」

「アンタの人柄はワシらが証明してやるさ」と、引佐。

「またのちほど」とは叢雲。

 行きましょう、と比榮に再度うながされ、フェリオはふたたび歩き出した。

 蒼月邸の前にはすでに馬車が迎えに来ている。由太夫と比榮とともに馬車へ乗り込むと、会話もそこそこに馬車は勢いよく走りだした。


 目的地は、エンデランドの中心セント地区にある『中央閣府』。

 アナトリア地区からセント地区へと踏み入れた瞬間から、気温は一気に肌寒くなった。そういえばここセント地区はゆいいつ大陸とおなじく四季を有する地区であるといった。

 ゆえにいまは冬なのです、と比榮ははきはきとしゃべった。

「大陸にはついぞ行かぬでしょうが、四季が巡るというのはおもしろいですね! セント地区に参ると節によって気候がちがうので飽きません」

「なぜエンデランドの民は、ここから出ないんだ」

「出る必要がないからでしょう」

 由太夫は微笑んだ。

「この島にいる限りは、すべてに守られる。わざわざ危険を冒してまで外の世界に行くもの好きはそういません。それに何より、フェリオどのも体感されたとおり大陸までの海域は潮流がひどい。刑部水軍なら安全に運んでくれましょうが、彼らはほかにもつとめがありますから。ゆえにいまのところ、空でも飛ばぬかぎりはこの島から出る術もありません」

「なるほど──そもそも知らなければ、それは存在しないことと同じ。大陸もそうなのかもしれん」

「逆に少しでも知ってしまったなら、フェリオどののように狂おしいほどの衝動が湧き上がるものでしょうか……」

 比榮が小首をかしげる。

 フェリオは唸った。

「さあ、どうかな。衝動が湧き上がったとして、ほとんどがその衝動を胸に抱えたまま死んでゆくだろう。おれの場合はもはや死ぬほかに道もなくなったからだ。母はすでに他界して、息子も一人立ち。妻はずいぶんむかしに離縁した。守るものがなくなった人間は時に衝動に身を委ねることがある。それがいまだった、というだけのことだ」

「いのちを賭して旅をする──その先に無限の知見が広がっているというのなら、私もその衝動に身を委ねたいものです」

 と、由太夫はうっとりとつぶやく。比榮も力強くうなずいている。

 ああ、とフェリオはふたりを交互に見た。

「君たちは賢そうな目をしている。いまはまだその時でなくとも……いずれ時が来たときはきっとたのしい旅となるだろう」

 由太夫と比榮は顔を見合わせ、無邪気にわらった。

 馬車はまもなくセント地区主要都市フランキスカへ。都市のほとんどを占める『中央閣府』敷地内に入ってゆく。アナトリア地区の穏やかな空気とはうって変わってピリッと張り詰めた緊張感が周囲にただよう。

 馬車は大きな門前に停車した。

 到着しました、と由太夫が門扉の奥を指差す。


「ここが中央閣府正門、奥の建物にて各地区長たちがお待ちです」


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