第一章
Ep1. Raging storm
大陸東端に位置するバルドレア王国、貿易都市グロリオーサの港から、晴天のなか航海に乗り出して四日。突如なんの前触れもなく襲って来た大嵐に成す術もなく、フェリオ・アンバースを乗せた船は転覆した。船員ら乗組員八名は海上へと投げ出され、荒れ狂う白浪のなかへと消えた。
ただひとりフェリオは、海面に浮かぶ救命ボート付近に落下したこともあって、覆い被さるような高波のなかを必死にボートで走りつづけた。大嵐がふたたび鳴りをひそめたのはそれから二日後。齢四十二を迎えるフェリオの老体は極限状態となり、昨日とはうって変わって静かな海原を前に、いよいよ死を覚悟した。
意識を失なう間際、フェリオは上空に、渡り鳥が飛び去る景色が見えたのをおぼえている──。
※
頬を叩かれて目を覚ます。
大丈夫か、という大陸の言葉に、フェリオはうっすらと目を開けた。視界が揺れる。ここはまだ海上らしい。船底が水をかき分ける音が聞こえた。
どうやら幸運にも、フェリオは通りすがりの船に拾われたようだった。
「────!」
そばにいた青年が、後ろに向かってよく分からないことばを発した。大陸言語ではない。フェリオがゆっくりと身を起こす。とたん、身体中がバキバキと音を立てた。全身が痛んでフェリオはおもわず呻き、ふたたび床にころがった。
黒々と日に焼けた青年がフェリオの肩を抑える。大陸にはおよそ見かけぬ薄い顔立ち。異国人か──とフェリオの胸がドッと緊張する。
しかし青年は動きを制するしぐさをして、
「まだ動かないで。傷がひどい」
と流暢に大陸言語を話した。
敵意はない。らしい。
フェリオは深く息を吐く。身体の痛みに気づいたとたん、あちこちの節々が痛みをあげる。呼吸をするのも億劫だった。青年は懐から黒いケースを取り出した。蓋をあけ、指で粘性の何かを掬うとフェリオの傷口に塗り込んだ。ツン、と草の香りが鼻腔をくすぐる。
「それは……」
「マンダラゲの塗薬。痛みがましになる」
「…………」
船上には聞き慣れぬ言語が飛び交う。
しかしフェリオに声をかける際は、みな一様に大陸言語を話した。話を聞くにつれ、どうやら彼らが『水軍』という船乗りであるらしいこと、聞き慣れぬ言語は『水軍』内特有の言語であること、さらにはこのフェリオを拾ってから丸二日が経過していることを理解した。
意識を取り戻してからおよそ一時間。
船乗りの長らしい男が、フェリオのようすを見にきた。
「良かった。死んでなかったか」
「…………残念ながら」
言いながら、フェリオはふたたび身を起こす。からだの痛みは幾分かましになっている。さっきの塗り薬のおかげか。フェリオは重だるい腰をぐるんと回してみる。
骨に異常はないようだった。
男は髭を撫で付けながらカラッとわらった。
「アンタ、バルドレアから来たのだろう。彼処からの航海は慣れてないやつがやると危険だよ。バルドレアから東に進むとだいたいこうなる。面倒だが南下して大廻りするんだ。そうすっと運が良けりゃァ魔の海峡は避けられる」
「天候変化の前触れもなかった。船員の彼らも、あの航路は不慣れとはいえプロだったのに、気付けなかったんだ。あそこはいつもああなのか?」
「秋空は気分屋だろう。だからどんな波が立つかなんてだれにも分からねえのさ」
「秋空? 季節はいま冬だ」
「大陸の季節なんざ知らんよ。アンタの目的地──エンデランドには大陸の常識なぞ通用しない」
といって、男はふたたび髭を撫でた。
涯の島──エンデランド。
ここを目的地とするにあたり、フェリオは書物にてわずかな知識を得てきた。
──大陸極東よりさらに東側にぽっかりと浮かぶ孤島がある。
かつて、大陸の者たちはそこを大罪の流刑地として『涯の島(エンデランド)』と呼んだ。ここに流されるは国家転覆罪をうたがわれ、政治的に抹殺された貴族とその家族。ほとんどは行き着く途中で死亡、たどり着く人間はわずかだったと言われている。
その人間たちが長い時を経て確立させたのが、現在のエンデランド。
土着信仰を中心とした宗教国家、隔絶された孤高の島国なのである──。
エンデランドについての情報はあまりにも少ない。
なぜなら行ったら最後、帰ってきた者はほとんどいないからである。その理由のひとつとして、今回のような海原での遭難がもっとも大きいと船乗りは言った。大陸の船乗りたちはもちろん、各所の荒波を乗り越えてきた屈強なグロリオーサの船乗りたちでさえ、エンデランドへの航海は未知だとも。
フェリオは今回の航海にあたり、船出に渋るグロリオーサの船乗りたちへありったけの金を積んだ。その結果が全滅というのだから、なおさら自身の生還が奇跡におもえる。
わるいことをしたよ、とフェリオは髭が伸び放題になった顔を撫でおろした。
「腕のいい船乗りたちを何人も死なせてしまった。いっそひとりで船出するんだった」
「馬鹿言っちゃいけねえ。ただでさえ海ってのは玄人でも手こずるんだ、素人がしゃしゃり出るもんじゃねえよ。まして、あの島までの航海ならなおさらさ」
「そういうアンタは……ずいぶん慣れているんだな。いったい何者なんだ」
「『涯の島』東側、アナトリア地区専属の刑部水軍。おれがカシラの刑部太郎一だ」
「え、エンデランドの人間か!」
フェリオは目を見開いた。
まあね、と男は胸を張る。
「あそこには五つの地区があって、そのなかでも唯一水軍としてかたちを成すのが我々刑部水軍だ。水軍といっても大陸にあるようなおっかねえ海賊とはちがう。漁はもちろん、海上の安全を確認したり、今回のアンタみたいな人間がいないか巡航したり──ね。まあいままで人を拾ったことなんざなかったが。つまるところ、エンデランド周辺の海についていちばんくわしい集団ということだ」
「恐れ入ったよ。そんな人たちに拾われただなんて、これ以上の幸運はない。……申し遅れた。わたしはバルドレアから来たフェリオ・アンバース。エンデランドを夢見る老い先短いただの旅行者だ」
フェリオは弱々しくつぶやいた。
ようやく力が入るようになった足で立ち上がり、海原を見渡す。海面はすっかりおだやかで、大陸にいた頃は冬であったはずの空気に暖かさすら感じる。
その疑問を刑部にぶつけてみると、彼は当然の顔をした。
「もう船はノトシス域を抜けてアナトリア域に入ったからな。季節は春だ」
「なんて?」
「ははっ。大陸人はあの島についてほんとうになにも知らないんだな。いいだろう、島につくまでにおれたちがじっくりと教えてやる」
といって刑部は船員をひとり呼ぶ。
駆け寄ってきた男は大陸人に比べると平坦な顔立ちをしていたけれど、日に焼けた肌や筋骨隆々の腕、無造作に結ばれたぼさぼさの長髪からは、屈強な男臭さを感じる。
男はムラクモと名乗った。
刑部は『おれたちが』と言ったが、どうやらエンデランドについての主だった説明は彼がしてくれるらしい。その手には一枚の地図が握られている。
ムラクモが話す言葉もまた、流暢な大陸言語であった。
──エンデランドは横に長い楕円のような形をしている。
島の中央部にある地区を中心として、東西南北の四つに分かれた計五地区からなる国で、ふしぎなことに東西南北に分かれた地区はそれぞれ年中の季節も異なっているという。
東に位置する常春の地区、アナトリア。
南に位置する常夏の地区、ノトシス。
西に位置する常秋の地区、デュシス。
北に位置する常冬の地区、シャムール。
この四地区につながる中央に位置するのが、ゆいいつ四季めぐる地区、セント。大陸の人間から、通称『エンデランドファミリア(涯の島王家)』と呼ばれる王室のほか、国を統べる機関である『中央閣府』、国教レオナ教の聖地『サンレオーネ』、国兵である『レオナ近衛師団』など、国家機関はすべて中央のセント地区に集約されている。
各地区は、統治貴族と呼ばれる家が地区長をつとめ、レオナ教含むエンデランドファミリアを支える役目を持つ──。
「レオナ?」
フェリオは口を挟んだ。
が、ムラクモは気をわるくするでもなくにっこりうなずく。
「島に立ち入ったらば、まず耳にする言葉ですよ」
「人の名前のようだが──エンデランドファミリアかなにかか」
「その始祖です。いや……もはやエンデランドの始祖といってもいい」
といって、ムラクモは地図を指さした。
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