1-2

陽向は、上衣のふところから懐紙を出すと、その間にはさまれた大きな笹の葉を1枚つまみあげ、

「ナウマク・サンマンダ・バザラタン・センダ・

 マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」

と、澄みわたる湧水ゆうすいのような声色で不動の陀羅尼だらにを唱えると、フッと息を吹きかけてから、コップの上にフタとしてかぶせた。

この笹の葉は、あらかじめきよめをほどこし、祭守さいしゅたる陽向が手ずからの筆で呪符をしたため護符としてある。


権禰宜たちは、いささか腰が引けながらも、ようやく遠巻きにテーブルのまわりに集まり、

「これが蠱毒……?」

「なんと禍々まがまがしい……」

と、コップの中の水に目をこらし、口々に嘆息たんそくした。


すべらかな象牙色ぞうげいろの顔をことさら真っ青に染めた星尾も、水中を狂ったようにもがき続ける鮮やかな瑠璃色の虫を見つめるほかなかった。


それは、体長10センチほどで胴の太さは1センチほどの、頭と尾の見分けがつかないミミズのような姿の虫だった。

ヌラヌラした瑠璃色の表皮は、障子戸しょうじどごしに差し込んでくる秋の朝の爽やかな陽光の加減で、ときおりメタリックな輝きを見せた。


「え、なんかいるの、そのコップんなか? オレ、なーんも見えないけど。……てか、"コドク"ってなんなん?」

千影は、テーブルの向こうから身を乗り出して、アッケラカンと聞いた。


千影のそばに立っていた権禰宜の1人が、声をひそめて答えた。

「蠱毒ってのは、昔の中国と日本では法律で禁止されてたほどの、すごくタチの悪い呪術です」


「うへぇ、マジかよ! んで、どういう呪いなの?」


「1つの入れ物に、シラミやナメクジや毒グモやムカデ、あるいはサソリやマムシなど、あらゆる虫や動物を100匹集めて閉じ込めて、互いに共食いさせるんです。生き残った1匹に呪法をほどこすと蠱毒となり、呪われた相手に絶対に不運と死をもたらす必殺の毒薬となります」


「100匹の害虫のバトルロワイヤルかぁ。そりゃ、たしかにヤバそうだわ」


「けど、チカくんに虫の姿が見えないってことは、こいつは実体のない幽体ゆうたいなのかな。ってことは、他のところにご本尊ほんぞんまつられてるってことだなぁ」

と、別の権禰宜が口をはさんだ。

「となると、いよいよもってタチが悪いや、こりゃ」


「なんで?」


「おそらく、蠱毒となった本体の虫は、もう死んでるんだな。つまり、これはタダの蠱毒じゃない。蠱毒が邪霊じゃれいと化した、もはや悪鬼あっきに近い存在だ」


「悪鬼……」

星尾は、呆然とツブヤキながらも、魅入られたように自然とコップに顔を近付けた。


そのとたん、は、細長い体の先端を片方、コップの内側に体当たりしてきた。

まるで、ガラスの壁を死にもの狂いで突き破ろうとしているようだった。

しかも、星尾のいる方向ばかりを目がけて、何度も衝突を繰り返す。


コップが振動しんどうして、テーブルの上をかすかにズレ動くほどに。


明確にして強烈な殺意を、星尾は直感した。

よりによって、その殺意が、自分に向けられているということも……


「星尾のコップに水を注いだのは、誰なんだ!?」

権禰宜の中でも先輩格の1人が大きな声をあげた。


膳部かしわべ(※料理役)をつとめる権禰宜が、アタフタと返事をする。

鹿秋かしゅう りんが、今朝の配膳はいぜんの当番でした。けど、さっきから姿が見えなくて……」


ちょうどそのとき、障子戸しょうじどがスラリと開いて、若手の権禰宜が肩で息をはずませながら言った。

「鈴のヤツ、雲隠れしちゃいましたよ。……部屋を見にいったら、アイツの荷物もぜんぶ消えてました」


「…………」


重苦しい沈黙をからかうように、水の中の虫がまた暴れて、コップをグラリと揺らせた。


陽向は、星尾だけに聞こえるように、耳に唇を寄せてそっとささやいた。

贖罪しょくざいのときが来たみたいですよ、星尾さん……」

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