夕日が海に沈むとき

 その日はいつものように家を出て、電車に乗った。

 病院のある街まで10分足らず。

 先輩の元へ通うようになってから一ヶ月、この10分間だけが、俺の心の中に空白を生み出す時間だった。

 何かを考えようとしても、頭が働かなくなる時間。

 視線は電車内のニュースや広告の上を滑っていく。

 とりとめのない思考が行き交う。脳が休息を求めているのが分かる。


 もう十月だというのに、今日も暑くなるらしい。


         ◆


 病院に到着すると、俺は一直線にエレベーターへと向かった。

 1階から30階まで上る時間は、電車のそれと似ているようで違うものだ。

 もうすぐ先輩に会えるという高揚感が、胸を高鳴らせる。


 今日は海の環境音を用意してきた。

 先輩にこれを聞かせたら、何か反応があるだろうか。

 もしかしたら昨日のように、また会話ができるかもしれない。

 昨日の約束を覚えていてくれたら……いや、そこまでは望み過ぎか。


 逸る気持ちで薄い緑色の自動ドアを抜け、クリーム色の床の上を早足で歩く。

 こうして急いでしまう癖は、ここに通うようになってからずっと変わらなかった。

 すっかり見慣れた通路を進む。やがて廊下の突き当りに、一つの扉が見える。

 先輩が設定してくれたおかげで、その扉は俺のIDを感知して滑らかに開いた。


         ◆


「あら、あなたは……」


 俺は一瞬、部屋を間違えてしまったのかと思った。

 いつものように先輩の病室を訪れたと思ったら、そこにいたのは、見知らぬ年配の女性だったからだ。


「あれ? えっと……」

「お見舞いの方、かしら」

「そうですが……え、あれ? 先輩は……?」


 思わずベッドの上を見る。

 そこは最初からそうであったかのように整えられていて、誰も寝てはいない。

 俺はとうとう寝不足と疲労が極まって、間違えるはずのない部屋を間違えてしまったのだろうかと……そう思った。


 でも、そうじゃなかった。


「連絡が行ってなかったのかしら……困ったわねえ」


 部屋は合っていたんだ。

 ただ、先輩がいなかっただけで。


「この部屋の方ね、昨晩亡くなられたのよ。私はお掃除に来たんだけど……ちょっと先生に連絡してみるわね」


 今、聞いたその言葉の意味が、理解できなかった。


 いや、理解することを、本能が拒んでいた。


「あら……そうですか。それじゃどうも。……お兄さん、今ね、院長先生が来てくださるって。大丈夫? つらいわよね。お気の毒にねえ」


 先輩が……亡くなった?

 昨晩?


 時間差で、脳に杭を打ち付けるように、言葉の意味が浸透してくる。


 視点が、頭が、ぐるぐると回る。

 知らないうちに手足が震え出す。


 俺は思わず部屋を飛び出して、廊下を走った。

 部屋を間違えたんだ。

 ここは違う人の部屋で。

 先輩の部屋は……どこだ?


 走る。

 どこにも辿り着かない。


 どこ……どこにも、ない。

 ナビゲートは、あの部屋を指し続けている。


 ……え?

 だって、先輩、昨日は久しぶりに話せて……

 今日は約束を、海の音を聞かせなきゃいけないのに。


 だって。

 そんな。

 こんなことがあるのか?


 だって俺は……


 俺は、先輩の最期を看取るんだろうと、思っていた。

 意識が戻らなくなって、脈が弱くなっていって、最後に伯父が呼吸器を外して……

 俺は先輩の手を握ったまま、涙を流して。

 先輩、さようなら、って。そう言って。

 漠然と、そんな終わりを信じていた。

 まるでドラマみたいな……


 そんなことは、なかったのか。

 これが現実なのか?


「隆治くん」


 気が付くと、俺は伯父に支えられて立っていた。


「すまない。夜のうちに連絡できなくて」

「伯父さん……本当なんですか? 本当に、先輩は……」

「急性心不全だった。突然心臓が止まって……恐らく、薬の副作用が出てしまったんだろう」

「そんな……」

「本当はすぐ君に連絡するべきだったんだが、親御さんに連絡した後、久米社長から待って欲しいと言われてね……」

「……は? 久米?」

「最近の君はほとんど眠れていなかっただろう? 限界が近かった。でも昨日は久しぶりに秋元さんと話せて、嬉しそうにしていたと……社長がね。今だけは穏やかな気持ちで、ゆっくり休ませてあげて欲しいと。そう言われたんだ」


 久米、あいつ余計なことを……!


 一瞬、俺の頭はヒートアップしそうになる。

 眼の前が真っ赤になって、怒りが喉を突き抜けそうになって……


 ……すぐに冷静になった。

 怒るだけの気力も、今の一瞬で燃え尽きてしまったみたいに。


 夜のうちに連絡をもらったところで、もう手遅れだったんだ。

 俺にできることなんて何もなかった。

 どちらにしろ、先輩の最期を看取ることはできなかったんだ。


 無力感に全身が押し潰されそうになる。

 伯父は俺に何か話しかけながら、エレベーターに乗せてどこかへ連れて行こうとしているようだったが……俺にはもう、それを一々確認するだけの気力もなかった。


         ◆


 連れてこられた地下のフロアは、気のせいか少しひんやりとしているようだった。

 ああ、懐かしいな。

 そんな感想が頭をよぎり、少し遅れて、昔のことを思い出す。

 確か、家族が死んだ時も、こうして伯父に連れてこられたんだっけ。

 思えば二回目、なのか。ここに来るのは。


 ずらりと並ぶ扉のうちの、その一つの前まで来ると、静かに横開きの扉が開く。

 伯父に背を押されて中に入る。

 そこには、ナツ先輩の父親がいた。


「ああ……三友さん」

「……」


 何を話せばいいのか。

 先輩の父親とは時々、病室ですれ違うことがあったが、こうして正面から顔を合わせるのは最初に会った時以来だった。


「今まで……娘のために力を尽くしてくれて……ありがとうございました」

「そんな、俺は……」


 深々と頭を下げられて、俺は困惑を隠せなかった。


「俺は、何もできませんでした。何も……」

「いいえ。そんなことはありません」


 顔を上げた彼は、きっぱりと言い切る。


「娘が喋れなくなる前のことですが、あの子はいつも君が帰った後、私に話してくれましたよ。君に会えてよかった、明日が来るのが楽しみだと。病気にならなければきっと君と出会えなかった。だから自分は幸運だったのだと……」

「……!」


 そこまで。

 そこまで先輩は俺のことを、想ってくれていたのか。

 ああ、嬉しい。

 嬉しいはずなのに、駄目だ、心が動かない。


「私から伝えられるのは、感謝だけです。どうぞ、娘の顔を見てあげてください」


 そう言って彼は部屋から出ていった。

 残された俺の目の前には、ベッドに寝かされた一人の少女だけがいる。


「……先輩?」


 顔にかけられた布をそっと外す。

 久しぶりに、呼吸器をつけていない先輩の顔を見た。

 その表情はとても穏やかで……ただ眠っているだけにしか見えない。

 体にかけられた布を少しずらして、先輩の手に触れる。

 ……冷たい。

 本当に、人は亡くなると、冷たくなるんだな。

 その冷たさに、じわりと実感が湧いてくる。

 これが、死なのか。


 何か話しかけようとして、でも、喉が詰まったみたいに、声が出なかった。

 口だけがパクパクと動いて、我ながら滑稽だなと思う。

 結局俺は少しの間、そうして先輩の顔を見つめていただけで……

 それから、かけられていた布を元に戻して、部屋の外に出た。


「……もう、いいんですか?」

「はい……」

「では……これを。娘から預かっていたものです」


 そう言って先輩の父親から手渡されたのは、一冊のノートだった。


「これは」


 先輩が詩を書き留めていたノートだ。

 パラリとページを開くと、何篇かの詩が綴られていた。

 最後の詩は、二人で屋上庭園に行った時のもので……その後には空白のページが続いている。


「娘から頼まれていました。自分が息を引き取った後、これを君に渡してほしいと」

「俺が貰っていいんですか……?」

「ええ。それが娘の願いです」


 もう一度、ノートの最初から詩を見返す。

 向こうの世界でも詩を見せてもらったことがあるけど、このノートに書かれているものはそれと全く違っていて、どれも明るい詩ばかりだった。とても死を覚悟した人が書いたものとは思えない。

 特に、愛という単語が頻発しているのが印象的だった。

 これは……俺のこと、だと思っていいのだろうか。


 最後の詩を読み終わり、それでも空白のページをめくっていく。

 するとノートの最後の方に、何か書かれているのを見つけた。

 それは詩ではなかった。


 ――


 リュウくん。

 あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのでしょう。

 ……なんて、小説みたいなことを自分で書くことになるなんて思わなかったな。


 私は今、屋上庭園でのデートの後、リュウくんが帰った後にこれを書いています。

 今日は楽しかったなー。

 もうどこかに出かけることなんて二度とないと思っていたから、現実世界でもあなたとデートすることができて、本当に幸せです。

 ヒマワリ、かわいかったね。


 あのね、リュウくん。

 私は最近考えていることがあります。

 前に私、言ったじゃない? 30階の、巡礼者の宿っていう名前。皮肉な名前だなって。

 でもね、今はちょっと考えが変わってきたの。

 私はもう、終わりが見えていて、何もできないでしょう? だから祈ることなんて何もないと思っていたんだけど……それは逆だったみたい。


 私はもう、この世界に何もしてあげられないから。

 私はもう、誰かの役に立つことはできないから。

 だからせめて、これから先も続いていくこの世界と、人々と、リュウくんに、少しでも多くの幸せがありますようにって。そう祈る気持ちが湧いてきたんだ。


 リュウくん。

 あなたと出会えて本当によかった。

 あなたと恋人同士になれて、本当に嬉しかった。

 好きな人に好きって言えて、好きな人から好きって言われて、私の人生でこんなに幸せなことはなかったよ。

 私のために色々頑張ってくれてありがとう。嬉しかった。楽しかったよ。

 あなたのことを心から愛しています。これからもずっと。


 でもね。

 私が死んだ後、リュウくんはきっと悲しんでくれると思うけど……

 そのまま動けなくなっちゃったりしないか、ちょっと心配です。


 自意識過剰かな? こんな心配しなくても、大丈夫かもしれないね。

 でも、それでも、言わせて。

 どうか、これからは自分のために生きてください。

 私のことは忘れてほしくないけど……でも、それは今の私がそう思っているだけだから。私の言葉に縛られないで。あなたの人生は、あなたが決めてください。


 きっと私がいなくなってもお腹は空くし、眠くなるし、もしかしたら別の誰かを好きになることだってあると思う。

 でも、それは当たり前のことなんだよ。私がどんなに願っても手に入れることができなかった、当たり前なんだ。きっとね。

 ちゃんと朝起きて、やりたいことをやって、やりたくないこともちょっとだけ頑張って、そんなふうに毎日を生きていたら、きっと、少しずつ私のことを思い出す時間も減っていくんだろうなと思います。

 少し寂しいけど。

 リュウくんがこれからの人生をできるだけ精一杯生きて、それでいつか、もう限界かなって時に……私のこと、少しでも思い出してくれたら嬉しい、かな。


 なんだか、何を言いたかったのかよく分からなくなってきちゃった。


 それじゃあ、バイバイ、リュウくん。

 夕日が海に沈むときに、また。


 ――


「ああ……」


 先輩の、言葉だ。

 そこに書かれていたのは、俺に向けて書かれた最後のメッセージだった。


「あああ……」


 ノート2ページ分にも満たないその文章が、俺だけに向けられたその言葉が、心の奥をどうしようもなくざわつかせる。


「先輩……」


 泣いているのか、俺は。

 みっともなく他人の前で。

 涙も声も勝手に出てきて、止まらない。


「ナツ先輩……!」


 先輩の声が聞きたい。

 もう一度、名前を呼んで欲しい。

 AIが合成した声でもいい。先輩が思って、発してくれた言葉なら同じだ。

 それなのに……

 もう、会えないのか。

 体はすぐそこにあるのに。記憶もあるのに。

 必要なものは全て揃っているはずなのに。

 時間だけが、取り返しがつかない。


 せめて最後に、海の音を一緒に聞きたかった。

 もっとたくさん話しかければよかった。

 返事をしてくれなくても、ただ生きていてくれるだけでよかったのに。

 もっと思い出をあげたかった。

 少しでも苦しみを分かち合いたかった。

 もっと早く出会っていれば……


 虚脱感と、渇望と、後悔が、同時に押し寄せる。


 俺はまた、大切な人をうしなった。








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