最後の願い

 先輩が涙を見せたあの日からほどなくして、状況がまたひとつ移り変わった。


 先輩は、自分の力で呼吸することが難しくなった。


 呼吸を補助する機械が取り付けられ、そのせいで言葉を話すこともできなくなった……のだが。


「先輩、こんにちは」

「こんにちは、リュウくん。来てくれて嬉しい」


 視線と脳波によるデバイス操作で文章を作成し、事前にサンプリングされていた先輩の声をAIが合成して読み上げる。

 予めこうなることを見越して準備していたのか、その声は、俺でもほとんど違和感に気付かないくらい自然だった。


「今日は、花を持ってきました。よく考えたら俺、こういう定番のことしてなかったなって思って」

「綺麗だね。ありがとう、リュウくん」


 この状態になってから先輩は、一度も弱音を吐いたり、泣いたりしていない。

 あの日、俺の前で大泣きしたことで吹っ切れた……という訳ではないだろう。恐らく、自分の考えを一度文章にすることで、客観視できるようになったからじゃないかと思っている。

 もちろん、文字ベースでも感情的になる人はいるが、先輩はそうではなかった。それだけ精神力が強いということだろうか。

 取り乱すことなく穏やかに話す先輩を見ていると、少しだけ複雑な気持ちになる。


         ◆


「それで先輩、すげー気に入ってくれてさ。俺が帰った後も花を見ると、その日一緒にいた時間のことを思い出して穏やかな気持ちになるんだって。いやー、久米のおかげだよ。花を贈るなんて完全に盲点だった。俺じゃ絶対に思い付かなかったわ」

「お……おう。喜んでくれて何よりだよ」

「今は毎日違う花を持っていくことにしてるんだ。花が萎れていくのを見せなくていいし、俺も選ぶの楽しいしな」

「あー……それでその背後にある大量の花の意味がわかったよ」

「まあ、捨てるのもなんだしな……俺もこれを見て、その日先輩と話したことを思い出したりするし」

うらやましいね。そんなに愛してもらえて」

「……羨ましい?」

「あっ……ご、ごめん。失言だった。そんなつもりはなかったんだ。謝るよ」

「ああいや、俺も別にそういう意味じゃなくて。……俺、ちゃんと先輩にふさわしい恋人をやれてるのかなって思って」

「……もちろん、君は最高のパートナーだと思うよ」

「そうかな? 久米がそう言うなら、ちょっと自信つくなー」

「……うん」


         ◆


『延命治療を止めた彼女の体は、加速度的に悪くなっていく』


 いつか聞いた伯父の言葉を思い出す。

 昨日まで普通にできていたことが、今日はできなくなっている。

 そういうことが、今まさに先輩の体に起きていた。思えばそれは、これまで何度も繰り返されてきたことだったはずだ。

 その意味を確実に理解させられていく。


 先輩は、目を開けられなくなった。


         ◆


「別に、目が見えなくなった訳じゃないんだ。まぶた越しに光を感じられるし、開眼器を使えばなんとか見える。でもまあ、それをやると絵面がシュールでな……定期的に人工涙液を点眼しなきゃならないし。先輩はそんな顔を俺に見られたくないって言って、でも俺の顔は見たいって……折衷せっちゅう案として、その日の最初と最後に一瞬だけ使うってことになってさ……」

「……そっか。相変わらずラブラブなんだねえ」

「ラブラブって。本当そういう古い言葉好きだよな、久米は」

「温故知新というやつだよ、三友くん」

「微妙に違うような気もするが……久米、なんか最近元気ない感じか? 変態的な発言が減ってる気がするぞ」

「変態って君ねえ。私も一応、年頃の乙女なんだぜ?」

「わかってるよ。あんたは本当は常識的な人間だし、いい奴だ。なんで俺なんかに構ってくれるのか知らんが、もったいないくらいだと思うよ。話を聞いてくれるだけでも、だいぶ助かってる。感謝してるんだ。これでもな」

「はぁ……まったく君というやつは……そういう……まったく……」


         ◆


 先輩はよく、音楽を聞くようになった。


 自分の意思で目を開けられないという状態は、今自分が目覚めているのか、夢の中にいるのか、妄想の中にいるのか、それらの境目があやふやになって、強い不安に襲われるらしい。

 だから常に音楽を流しておいて、自分の状態を把握するのだそうだ。

 先輩がどんな音楽を聞くのか最初は想像できなかったが、意外なことにそれは、ジャズだった。


「先輩、こんな趣味があったんだ。知らなかった」

「趣味っていうか りゅうくんと 一緒にいった お祭りできいて」

「あー! そういや流れてたなあ。あのミスマッチ感が逆に楽しかったっけ」

「そうそう」


 仮想世界の夏休みに、先輩と一緒に行った祭りを思い出す。

 神社の方からは祭囃子が、商店街の方からはジャズバンドの演奏が聞こえてきて、なんともカオスでありながら、意外と悪くない組み合わせだった。


「たのしかったね」

「うん。楽しかった。先輩の浴衣姿も良かったなー」

「ちょっと 複雑」

「複雑?」

「気持ち 私は きれないから」

「ああ……なるほど。確かにこっちの先輩の浴衣姿も見てみたかったな。なんでも似合いそうだから、きっと可愛いよ」

「かわいい かな」

「もちろん」


 目を開けられなくなった先輩は、今は思考を解析して言葉にするデバイスだけで話している。AIによる学習と処理によって、かなりスムーズに会話できるようになったが、それでも思考を集中しなければならないらしく、きちんとした会話は先輩にとっても少し大変なようだ。


「りゅうくん ありがとう」

「んー? 俺は俺のしたいようにしてるだけだよ」

「好き」

「俺も先輩のこと、大好きだよ」


 ナツ先輩は、毎日必ず「ありがとう」と「好き」を伝えてくるようになった。

 うまく話せない先輩にとってそれが精一杯の自己表現なのだと思うと、嬉しいような胸が締め付けられるような、行き場のない衝動が湧き上がってくる。

 俺も先輩の手を握り、手や頬に口づけをして、少しでも自分の気持ちを伝えようと試みる。

 その行為はどこか、祈りに似ていた。


「おはなし してほしい」

「いいよ。じゃあ今日は……天世あまよの前世の話をしようかな。なんとあいつは恐竜人間だったんだ。まあこれも久米たちの仕業だったんだけど……」

「くめ さん」

「ん?」

「よく名前が出てくる」

「ああ、前にも言ったけど、たまに話すんだ」

「好き?」

「いやいや、あいつは……友達? みたいなものだよ。俺が好きなのは先輩だけ」

「そっか」


         ◆


「先輩が久米にヤキモチを焼いているみたいなんだが」

「えぇ……急にそんなこと言われてもなあ」

「まあ、不安なだけだと思うけどな。俺たちは友達っつーか、協力者? みたいなもんなのにな」

「まーそうね……まったく、女の勘ってやつは恐ろしい」

「アンタもお見舞いに来てくれよ。直接話せば先輩も分かってくれると思うんだ」

「……残念ながら、私は多忙でね」

「嘘つけ。今日もこうして話してるじゃねーか。本当は暇なんだろ?」

「はぁ……まったく……恋は盲目ってやつだねえ……」

「なんだそりゃ?」


         ◆


 それから少しして、先輩の意識が混濁するようになった。


 毎日、覚醒している時間が短くなっていく。

 こちらの声は聞こえているみたいだし、手を握れば反応するけど、AIでもうまく処理できないくらい思考が支離滅裂になりつつある。


 会話が成立することが、ほとんどなくなった。

 それでも意思は通じていると信じて、俺はいつも通りに話しかける。


「先輩、今日はバラを持ってきたんだ。呼吸器つけてても、香りは少し分かるって前言ってたよね?」

「……」

「なんて品種だったかな……なんか名前がついてた気がするんだけど……忘れた」

「あさ」

「ん? おお、朝だよ。朝っつーかもう昼だけど。目さめた?」

「いたい」

「どこか痛い? 手、握ってもいいかな?」

「くも 白い 水」

「……外を見てた時のこと、思い出してるのかな。まあ、こうして反応してくれるだけでも嬉しいよ」

「ほしい」

「何か欲しいものある? なんでも用意するよ。先輩のためなら、なんでも……」

「……」


 夢と記憶と妄想が浮き沈みするような意識の波の中から、AIが意味のある言葉を取り上げて、形成して、現実に響かせている。

 先輩の言葉の半分以上はAIが作った言葉だ。

 俺は半分以上、AIと会話している。


         ◆


「久米……すまんが、今日はちょっと」

「ああ、だいぶお疲れのようだね。それでも会話に応じてくれてありがとう。どうか私のことを嫌いにならないでおくれよ?」

「なに言ってんだ……?」

「私は……いや、うん。私も少し、疲れているみたいだ」

「そうか。久米、くれぐれも例の件……」

「うん。任せておきたまえ。簡単な仕事さ」

「……頼む」


         ◆


 先輩はもう、自発呼吸ができない。

 無理やり瞼を開いても、目の焦点を合わせることができない。

 感じられるのは薄っすらとした光と、音、そして肌に触れる感覚だけ。


 これが100年前だったら、とっくに呼吸器を外されていただろう。

 でも今は、AIの力を借りて、まだ話すことができる。

 一日の大半は眠っているけど。

 脳が覚醒しても、意味のあることを考えることもできないけど。

 それでも時折、急に波が高く上がるみたいに、はっきりとした意思を示すことがある。まともな言葉を話すことがある。


「こんにちは」

「っ……!? 先輩!?」

「みんな、遅いね。どうしたんだろう」

「みんな……?」


 だからその日、本当に久しぶりにまともな会話をすることができたのは、きっと、奇跡みたいなものだった。


「ねえ、。今日も部活が終わったら、海に行かない?」

「先輩……?」

「どうしたの?」

「ああ、いや。なんでもないよ。いや……そうですね、先輩。海に、行きましょう。また二人で、いつもみたいに」

「うん。楽しみ」


 先輩の意識は、向こうの世界にいるみたいだった。

 鮮烈な記憶。苦痛のない時間。

 例えそれが、アバターが経験した記憶を共有しただけのものだったとしても。

 それら全てひっくるめて、先輩なんだ。

 先輩は今、ここにいる。


「なんだか、今日は涼しいね」

「もう十月ですからね……」

「夏の、雲は 嘘みたいにきれい」

「そうですね。作り物みたいだ」

「友田くんと一緒に、海に行くの。好きだった」

「俺も好きです」

「海に 夕日が沈む時に あれ?」

「どうしました?」

「また一緒に、海に行こうね。リュウくん」

「ああ……うん。行こう。約束する。一緒にまた」

「やくそく」

「うん、約束」

「……」

「……先輩?」

「……」


 その一瞬の奇跡は、あっけなく終わる。

 先輩はまた眠ってしまった。

 たくさん、話したいことがあったはずなのに。


         ◆


 ああ、海に行きたいと言われたあの時。

 どうして俺はすぐさま環境音楽を検索して、波の音を流すくらいのアドリブを効かせられなかったんだろう。


 そんなことを、病院の帰り道にふと思う。


 そうだ、明日。

 明日、試しに波の音を聞かせてみよう。

 もしかしたら、また会話できるくらいに先輩の意識が戻るかもしれない。








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