迫りくる終わり

 先輩の具合は日を追うごとに悪くなっていった。

 昨日できたことが、今日はできなくなっている。そんなことが続けば、当然精神面にも悪影響を及ぼす。

 俺と会う時は気丈に振る舞っていた先輩も、ふとしたきっかけで弱音を吐くことが多くなっていった。


 その日もいつものように雑談をしたり、一緒に音楽を聞いたり、二人で手を繋いだまま無言の時間を過ごしたりしていた。そんな折、先輩がポツリと呟いた。


「……どうして、私なんだろう」


 それはきっと、何百回、何千回と心の中で問いかけてきたであろう言葉だった。


「百年前より医療は発達してるはずなのに、治せなかった病気も治せるようになったのに、それでも原因のわからない病気はなくならなくて……」


 病気がなくなることはない。そんなことは誰でも知っている。

 数十万人に一人が発症する難病、なんていうものも、別に取り立てて騒ぐほど珍しいものではない。

 だが、それが自分の身に降りかかるとなれば話は別だ。


「……なんで、私だけが」


 つい、こぼれてしまったのだろう。

 その一言が、先輩の心の中に溜まっていたものを呼び水のように誘い出す。


「私、何も悪いことしてないのに。気がついたらこんな、ずっと罰を受けるみたいに苦しくて、何もできなくて。みんな、普通に生きてるのに、普通に……」


 繋いだ手が震える。

 精一杯のいきどおりをぶつけようとする先輩の手は、もうほとんど動かなくて。


「すっ、好きな人ができて、やりたいことも、ある、のに……なんで私だけ……」


 俺は、ただ頷いて、相槌を打つことしかできない。


「……しにたくない。まだ死にたくないよ」

「先輩」

「リュウくん、怖い。私、本当は怖いんだ……あんなにちゃんと考えて、決意したはずなのに。いやだ、私また、後悔ばっかり……」

「先輩……先輩は一人じゃない。みんな、みんな一緒だ。最後に行き着くところは同じで……昔からずっと、そうやってきた。俺もいずれ、同じ所に行く」

「……うー。でも、でも、もっと一緒にいたかった……もっと二人で、たくさん、楽しいこと……」


 先輩は、泣いていた。

 俺もそれ以上、言葉にできなくて、繋いだ手に涙をこぼすことしかできなかった。


         ◆


「やあ三友くん。……今日はあまり、ご機嫌が良くないみたいだね」

「……そう見えるか?」

「顔色が悪いよ。寝不足かな? ちゃんと食べてる?」

「最近眠れないんだ。あんまり」

「……部屋も、ずいぶん荒れてるみたいだけど」

「ちょっと掃除をサボっててな……」

「ハウスクリーニング用のロボットがいるのにかい?」

「……」

「ごめん。余計なことを言ったね。……今日は、早めに休んだほうがいい」

「待ってくれ」


 早々に通話を切り上げようとする久米を、俺は呼び止めた。


「少し……話がしたい」

「……君に引き止められるなんて、今日はラッキーだなあ。いいよ、話をしよう」


 久米は優しい表情で頷いた。

 こいつは普段は変態みたいな言動をしているけど、実際は空気を読める奴だ。そこに甘えてしまう自分に嫌気が差しながらも、俺は藁にもすがる思いで口を開いた。


「今日、泣いてたんだ。先輩が。まだ死にたくないって」

「うん」

「痛みも苦しみもないあっちの世界は、先輩にとって夢みたいな場所だったはずだ。でも、そこで最後の時間を過ごすっていう選択肢を捨ててまで、先輩は戻ってきた」

「そうだね」

「俺じゃ想像もつかないような決意があったはずなんだ。そんな先輩が、後悔してるって……ショックだった。けど、当たり前なんだよな。体がうまく動かなくなっていって、死ぬほど苦しくて、本当にあと少しで死んでしまうことが分かってて。そんなの、正気じゃいられないよな」

「ああ、私もそう思うよ」


 ひとつ、息を吸う。

 我ながら追い詰められているなという自覚がある。


「……今更、本当に今更こんなこと言うのもどうかと思うけどさ。冷凍睡眠、みたいなこととか……できないのかな?」

「残念ながら、できない」

「でも、あっちの世界に接続する時に……」

「あれは擬似的な冷凍睡眠、というか、別に冷凍してないからね。体温を下げて、脈拍や呼吸なんかをギリギリまで落として、体の負担を少しでも軽減するための措置だよ。君が想像している冷凍睡眠とは全く別物だし、それは今の技術では不可能だ」

「そうか……それじゃあせめて最後に一度だけ、あっちの世界に先輩を連れて行ってあげられないか……?」

「ごめんね。それは不可能なんだ。秋元さんの体はもう、とてもじゃないが必要な処置に耐えられない。それに……うん。君は少し、勘違いしている」

「勘違い……?」


 俺が顔を上げると、久米は両手の指先を擦り合わせながら、視線をそらしていた。


「例えば、秋元さんが現実世界こっちに戻ってこないことを選択した世界線があったとする。その場合、やがて彼女の肉体が生命活動を停止した時、仮想世界むこうの彼女はどうなると思う?」

「どうって……こう、糸の切れた操り人形みたいになるんじゃないか? あのアバターがいきなり消滅するとは思えないし……」

「不正解だ。実際どうなるかはシミュレーションの上でしか分かっていないが、まあまず間違いなく、向こうの世界の彼女には、何の影響もないだろうね」

「……? どういう意味だ?」

「向こうの彼女は、現実世界の自分の肉体が死んだことにも気付かずに、活動を続けるということさ」

「は……? なんでそうなるんだ……?」

「あえて説明していなかったから、勘違いしても仕方ないんだけど……」


 俺は、久米の言ってることの意味が分からず、混乱していた。

 そんな俺に噛んで含めるように、久米はゆっくりと話す。


「君たちが向こうの世界に接続する時……まあ、この「接続」という表現からして既存のシステムの流用だから間違っているんだけど……手順はこうだ。まず、君たちの脳の構造をスキャンして複製する。同時に記憶も抽出する。それを向こうの世界のアバターに適用する。以上だ」


 なんか簡単に言ってるが、完全にSFの領域の話だな。今更だけど。


「それで……?」

「それだけさ。向こうで目覚めたアバターは、自分が三友隆治だと思い込む。自分は今、現実世界から接続しているのだ、とね。実際は、同じ記憶と人格を持ったコピーみたいなものに過ぎないんだけど」

「え……」


 混乱が、加速する。

 どういうことだ?

 頭が理解しようとするのを拒んでいるみたいに、堂々巡りする。


「向こうで過ごしたアバターの記憶は、帰還申請が受理された後、現実世界で冷やされている君の脳に上書きされる。わかるかい? 君は最初から、あの病院で眠っていただけなんだ。向こうの世界を体験したのは君ではなく、アバターだ。君はその記憶を共有しただけなんだよ」


 俺は……その事実を、どう受け止めればいいか分からなかった。

 単にそういう仕組みなのだと言われれば、なるほどそういうものなのかという感想になる。でも、俺の主観では確かにあの世界を体験したのは俺自身だし、全ては連続した経験として記憶されている。だから久米の説明は正しくない、という印象になってしまう。……そういう風に記憶を上書きされているのだから、当たり前なんだろうけど。


「我が社が提供する接続型VRと同じように、リアルタイムで脳とアバターを同期させる……ということはできなかったんだ。技術面の問題でね。泥臭い方法で記憶だけを上書きするしかなかった。だから、現実世界の肉体がどうなろうと、仮想世界のアバターは一切影響を受けないのさ」

「じゃあ、先輩はこっちに戻って来なければ、普通に生きられたってことか? 病気に苦しめられることのない、あんなに泣くくらい望んでいた、普通の人生を……」

「『彼女は』ではないよ。『彼女のアバターは』という話さ。自分とよく似た他人の話と同じだよ」

「そんな……」


 記憶が同期されない限りは、別の誰かの話。現実の自分は、ただ眠っているだけ、ということか?

 じゃあ……自分って何だ?

 あっちの世界で話した先輩は……いや、そもそもあっちの世界の俺って……

 これまで確固たる核だと思っていた自分なんてものは幻想で、実は単なる記憶の連なりに過ぎなかった……ということか?


「久米……俺は、誰だ? 三友隆治か? それとも友田龍なのか?」

「それを識別するために肉体がある。君は間違いなく三友隆治くんだ。しかし、君の記憶には友田龍のものが混じっている。それだけの話さ」

「記憶……記憶っていうのは、なんなんだ?」

「経験の保存と、その再生。おそらく君が聞きたいのであろうエピソード記憶について言うならば、内側側頭葉を中心にした脳の複数の領域の働き、かな」

「全然わかんねぇ……」

「正直私もよくわかってない。ともかくウチの天才が、その記憶の仕組みを解明してコピーやら上書きやらできるようになったってワケ。まあ、そのためには脳を集中的にいじる必要があるから、その負荷を軽減するために、半年もクールタイムが必要な特殊なお薬が必要になるんだけどね」

「とんでもねー……」

「とんでもねーことなんですよ。あ、ちなみに君のPTSDが良くなったのも、君の記憶に少し手を入れたからだよ。原因になっている記憶を薄めた? らしい。その処置を行った上で記憶をアバターに適用したから、あたかも仮想世界で症状が改善したように思えたってカラクリなのさ」

「オイオイオイ、なにサラッととんでもないこと言ってんの。え、つまり俺は別に仮想世界に行く必要なかったってこと? つーかそんな画期的な技術があるなら、なんで世界中で話題になってないんだよ」

「隠してるからに決まってるだろう。あの子自身、この技術は300年くらい未来を先取りしてるって言ってたな。私はあの子の正体は未来人だと思ってる」

「何者なんだよそいつ……」


 どうやらこのとんでもないプロジェクト自体が、久米の言う「あの子」の技術によって実現されているらしい。まあ、俺にとってはどうでもいいことだが。 


「……待てよ。それなら、先輩の意識と記憶を、データとして保存しておくこともできるんじゃないのか? それってつまり先輩の魂みたいなものだろ? それを残しておければ……」

「魂ねえ」


 突然思い付いたアイデアに、久米は冷ややかな声で応えた。


「記憶と意識、脳の構造を網羅したものを魂と呼ぶのかい? 我々に言わせれば、それはただのデータだよ。かつてそういう人がいたという記録に過ぎない」


 先輩の魂を保存し、久米の会社のとんでも技術でロボットでも人造人間でもいいから健康な肉体を用意できれば……なんて、完全にSFなことを考えていた俺に、久米は釘を刺すように続ける。


「……三友くん、君にとっての本当の秋元さんはどこにいる? 病院にいる彼女? それとも仮想世界で出会ったアバターの彼女かい? それとも……彼女の記憶を新しい肉体にコピーすれば、それが本当の彼女になる? あるいはそれら全て、持っている記憶が同じなら、彼女たちは等しく同じ存在なのかな?」

「……それ、は……」

「答えられないよね。今のところ、答えなんてないんだから。我々が実現した記憶操作の技術は、そういうかつての思考実験の領域にまで足を踏み入れてしまったんだ。だから……ごめんね。君が今感じている苦悩の一部は、私のせいだ」

「……」


 先輩は、どこにいる?

 その問いはひどく新鮮で、残酷で、しかし……どこか希望に似た何かを想起させるようなものだった。


「久米……さん。確認したいことと、頼みたいことがある」

「……聞くだけ聞こうか」


 そうして俺は、一つの頼みごとをした。

 何の役にも立たない自己満足だ。

 それでも……

 ああ、それでも俺には、必要なことだったんだ。







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