熱
先輩は残りの人生を、花火のように燃やし尽くそうとしている。残り少ないそれを惜しむのではなく、記憶に焼き付くほど鮮烈な光と音に変えようとしている。
俺にできることは、忘れないことと、最後まで一緒にいること。
自分以外の誰かに対してできることなんて、それくらいしかないのかもしれない。
病院に向かう電車の中で、そんなことを考える。
100年経っても、電車という乗り物はさほど変わっていない。こうして揺られていると、部活が終わった後に先輩と一緒に帰った時の記憶が蘇ってくる。
最後に一緒に帰ったのはいつだっただろう。
まさか同じ時間がもう二度と訪れないなんて、その時は想像もしなかったはずだ。
◆
「リュウくん……よかった。ちゃんと来てくれた」
先輩の病室を訪れると、俺の姿を見た途端に、先輩は涙目になっていた。
「そりゃ来るよ。約束したでしょ」
苦笑しながら、ベッドの横の椅子に腰掛ける。
「もう来なかったらどうしようって、思ってた。一人でいると悪いことばっかり考えちゃう……」
「お父さんは? 来てないの?」
「忙しいから、そんな頻繁には来れなくて」
「そっか……」
先輩の家は相当なお金持ちらしいし、忙しくない訳がないよな。毎日来るのは難しいか。
まあ、大企業の社長なのに全然忙しそうに見えない奴もいるが……
俺は頭の中でダブルピースしている久米を追い払い、先輩の手を取った。
「寂しい思いをさせてごめん。これからは、毎日来てもいいかな」
「……いいの?」
先輩は顔を赤くしながらも、戸惑ったような声を上げた。
「昨日、伯父さんと話したんだ。そしたら、先輩と俺の気持ちが一番大事だって。だから……先輩、俺と会うと体調崩しちゃうかもしれないけど、それでも少しの時間でもいいから、毎日会いたい。先輩はどう?」
「私も! 私もリュウくんと毎日会いたいよ。時々寝込んじゃってて、話せないかもしれないけど……それでも会いに来てくれたらすごく嬉しい」
先輩の手が、か弱い力で、必死に俺の手を握り返してくる。
「じゃあ、決まり」
「うんっ」
俺たちは笑顔で見つめ合って……そのうちなんとなく恥ずかしくなって、目を逸らした。
「そういえば、気になってたんだけど……30階の窓って、全部この形なの?」
気まずさを誤魔化すように、話題を変える。
気になっていたのは本当だ。直径15センチくらいの小さな丸い窓。他の階では普通の大きな窓だったし、廊下に窓が一つもない、なんてこともなかった。30階だけが特別なのだ。
「ああ……これね。割られても外に出られないように、こんな形になってるみたい」
自由な方の手で壁の窓に触れながら、先輩は言った。
当然ながら、窓の外にはベランダのようなものは何もない。出れば落ちるだけだ。
それはつまり、そういうことなのだろう。
ふと病室を見回せば、タオルや紐をかけられそうなポイントが徹底的に排除されていることにも気付く。
誰もが自らの選択で30階に来る訳ではない。泰然と運命を受け入れられる者ばかりではないのだろう。
「小さい窓でも、景色はいいね」
感じ取ってしまった死のにおいを振り払うように、俺は窓の外を眺めた。
「雲がきれいだ」
30階から見える景色は、鳥の視点よりも高い。ここは都心から離れているため、視界を遮るものがほとんどなく、はるか彼方まで見渡せる。まるでキノコが群生するかのように小高いビルの集まりが遠くにポツポツと見え、その向こうにあるはずの地平線は白く霞んでいて見通せない。くっきりと線を引くような青空に、夏らしい大きな雲が膨らんでいる。その景色を見て俺は素直に、美しいと思った。
「……本当だ。雲も空も、久しぶりにちゃんと見た気がする」
先輩はそう言って、窓に顔を近付ける。
「毎日、この窓から外を見てるとね……だんだん遠くを見なくなるの。見るのはいつも下ばかり。建物も、歩く人も、小さ過ぎておもちゃみたいで、全部嘘みたい。夜に照明を消して外を見ると、キラキラしていてきれいだけど、私だけ取り残されたような気持ちになるんだ……」
先輩の語る情景を想像する。
もう二度と戻れない日常を見下ろす日々のことを。
そこにあるのは、きっと、圧倒的な寂しさだ。
知らず知らずのうちに、手に力が入る。すると先輩は窓の外を眺めながら、小さく握り返してくれた。
「……でも、面白いこともあるんだよ。ほら、あそこの建物。屋上がプールになってるの。今も誰かが入ってる」
「どれどれ?」
ベッドに身を乗り出して、先輩が指差す窓に顔を近付ける。……確かに、はるか下の方にある建物の屋上に、小さな丸い水色が見えた。競技用ではなく、ただ水に浸かって涼むためのプールらしい。
「本当だ。あそこにいる人も、まさか話題のタネにされてるとは思わないだろうな」
そんな感想を呟きつつ、先輩の方を向くと……
バチリ、と、至近距離で目が合った。
そりゃまあ、同じ小さな窓から、二人で景色を見ようとすれば、これほど顔が近くなるのも当然だ。
一瞬驚いたものの、すぐに身を引こうとして……いや、待てよ、と思い留まる。
片方の手は繋がれたままで、こんなにも近くに顔があって。
先輩の目はじっと俺を見詰めたまま、逸らされることもなくて。
……これは、今、なのか?
今がその時なのか?
いやしかし、もっとムードというかタイミングというか……
馬鹿、今がそのタイミングだろ。ムードってなんだよ。誰が判定するんだ?
待て、焦るな、落ち着け。
落ち着くな! いいから行け!
駄目だわからん、何もわからん!
まだ数秒も経っていないはずなのに、俺の頭はカラカラと無駄に空転していた。
ここぞという時にまるで役に立たない理性を尻目に、本能はきっちりと仕事をするらしい。
体が自然と動いていく。
吸い込まれるように二人の距離はゼロへと向かう。
……なんか、ふにゃふにゃになったグミみたいな感触……?
数秒後、適正な距離を取り戻した俺は、そんなよくわからない感想を抱いていた。どうやらまだ思考が麻痺しているらしい。
「リュウくん……ごめん……起きてられないかも……」
「あっ、先輩!?」
見れば、顔を真っ赤にした先輩が仰向けに崩れ落ちるところだった。
俺は慌ててその体を支えて、ゆっくりと枕に頭が乗るように誘導する。
繋いだままの手は熱く、どちらのものとも分からない汗でぬるぬるしていた。
何をどうすればいいのか、パニックになりかけた時、部屋の奥で待機していた医療用ロボットが素早く近付いてくると、何やら先輩の腕に触れて診察を始めた。
恐らく、先輩の脈が急激に早くなったので、ロボットが緊急起動したのだろう。
慌ててベッドから飛び退いた俺はその様子を見守るしかなかった。
先輩に操作されて、いくつかの薬を投与した後、ロボットは元の位置に戻っていった。薬のおかげか、先輩もどうやら落ち着いたらしい。
「先輩、大丈夫?」
「うん……もう平気」
「ごめん、急にあんなことしたせいで」
「謝らないで……私も、したかったし……」
掛け布団で顔を半分隠しながら、モニョモニョとそんなことを言う先輩。ヤバい、可愛すぎる。
「死ぬ前にやりたいこと、ひとつ……叶っちゃった」
「……それならよかった。先輩に嫌われたらどうしようかと思ったよ」
「私がリュウくんのことを嫌いになる訳ないよ。私の方こそ……こんな、すぐに倒れちゃって……面倒くさがられないか、心配」
「それは絶対に大丈夫。先輩のためなら死ねる。ていうか、もし先輩が望むなら、一緒に……」
思わず、ずっと胸の奥に秘めていた本音が溢れ出す。
先輩がいなくなった後のことを、どうしても想像できなかった。俺自身、どうなってしまうのか……その「分からない」ということが無性に恐ろしくて、安直な方向へと流れたくなってしまう。
「駄目だよ、リュウくん」
しかし、先輩は毅然とした声で言った。
「私は死にたくて死ぬ訳じゃないんだから、リュウくんがついてきたらだめ。……その気持ちはすごく、嬉しいけどね」
優しく
好きな人が、自分のせいで死ぬなんて、嫌に決まってるじゃないか。
「ごめん、先輩」
「ううん。こんなにも想ってくれる恋人がいて、幸せだよ」
「他にも何か、やりたいことがあったら言って。できるだけ叶えるから」
「ありがとう。考えておくね……」
それから少しして、静かに寝息を立て始めた先輩をしばらく見つめてから、俺は病室を後にした。
唇にはまだ、柔らかい余韻が残っている。
初めての感触は想像以上に甘く、やるせないものだった。
先輩の唇は、冷たく乾いていた。
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