繋いだ手の温度

 ナツ先輩と再会し、改めて正式な恋人同士となった翌日。

 先輩は、熱を出して寝込んでしまった。

 俺のせいで無理をさせてしまったのではないかと焦ったが、いまさら焦ってもどうしようもない。何か俺にできることはないだろうか。


『大丈夫? 辛かったら返さなくていいです』

『平気だよ。ありがとう』


 一応、昨日のうちに連絡先は交換しておいたので、迷惑になるかなあと悩んだ末に短めのメッセージを送ってみたら、すぐに返事がきた。


『気持ち的には平気なんだけど、熱が下がらなくて』


『寂しい』


『会いたい』


 ……俺の彼女、可愛すぎか?

 いや、そんなこと言ってる場合ではないんだろうけど、こう直接的に言われるとかなり来るものがある。


『明日、大丈夫そうだったら会いに行くから』

『うん。ごめんね』


 ところがその翌日も先輩の具合は良くならなかった。

 結局、次に会えたのは三日後だった。


         ◆


「お邪魔します……」


 俺が訪れたのは前回の談話室ではなく、先輩の病室だった。

 この30階には、終末期ケアというものの性質上、個別の病室しかない。どこかホテルの一室を訪ねるような緊張感がある。

 中に入ると、そこは病室というよりもマンションの一室に近いような印象を受けた。バス・トイレはもちろん、収納や簡易的なキッチンまである。

 談話室と同じく小さな丸い窓が並ぶ壁際にベッドがあり、その上から俺を見つけた先輩が嬉しそうに微笑んだ。


「リュウくん……ごめんね、こんな格好で」


 談話室で会った時はゆったりとしたワンピースのような服装だった先輩だが、今はさすがにパジャマを着ている。それでも可愛いことには違いない。


「全然、気にしないで。それより体調はもういいの?」

「私は大丈夫だって言ったんだけど、念のためだって……」

「長く話したから、疲れさせちゃったかな」

「ううん、そんなことないよ。なんかね……向こうに接続してた影響なんだって。色々な薬を使って体に負担がかかったから、それがまだ戻らないみたいで」

「あー、確かに俺も昨日くらいまではダルかったな」


 目覚めた直後の倦怠感はなかなかのものだった。自分の体はこんなにも思い通りに動かないものなのかと驚いたくらいだ。元々体は健康な俺ですらそうだったのだから、先に目覚めていたとはいえ、先輩はもっと大変なのだろう。


「昨日? リュウくんはいつ戻ってきたの?」

「向こうの夏休みが明けてから、二日後くらいかな。本当はすぐにでも戻りたかったんだけど、もしかしたら先輩が何食わぬ顔で部活に顔を出すんじゃないかなーという淡い期待もあって……」


 しかし、部活に先輩は来なかった。

 そして久々の学園長の登場により、先輩の退学を知らされて、ようやく帰る決心がついたのだった……というようなことを話すと、先輩は驚いたように笑っていた。


「ああ……あのすごい学園長。本当に来たんだね。でも……そっか。部の皆に心配かけちゃったのは申し訳ないな……」

「それなんだけど、どうして誰にも何を言わずに戻ってきたの? あーいや、別に責めてる訳じゃなくて、純粋に気になっただけなんだけど」

「んー……」


 先輩は少し俯いて、小さな窓の外を見た。


「面と向かって話したら、決心が鈍っちゃうと思ったから。桜ちゃんに泣かれたら、きっと私、帰れなくなっちゃう」

「あー……その場面は容易に想像できる」


 突然学園をやめると言っても、その理由を話すことはできない。それでは誰も納得しないだろう。特に向日葵と先輩は、頻繁にメッセージのやり取りをするくらい仲が良かった。向日葵が泣きながら先輩に詰め寄る姿が目に浮かぶようだ。


「でも……それも逃げだったのかもしれないなあ……きちんと話をするべきだったのかもって、ちょっと後悔……」

「いやーそれでも、話すったって、話せないでしょ?」


 一応、プロジェクトの規約で、向こうの世界の住人に真実を話してはならないというものがある。まあ、実際的な強制力はないので、話そうと思えば話せるんだが……この世界は作られたもので、俺たちのいる世界が現実なんですよとか言ったって誰も信じないだろうし、それどころか完全にアレな人扱いされるに決まってる。俺が芽多をそういう奴だと思っていたのと同じように。


「そうだね。でも、話せないっていうことも含めて、きちんと言うべきだった」

「……なんなら、一回戻るとか? もう一度あっちに接続して、お別れの挨拶だけでもしてくるとか……」

「それは、無理みたい」

「そうなの?」

「あっちに接続する時と戻ってくる時に、色々な薬を投与されたらしいんだけど……その薬の影響が抜けるのが、大体六ヶ月後くらいなんだって」

「ああ……」


 忘れてたけど、そんなことも書いてあったか。

 疑似コールドスリープ状態で使われる薬。それは人体に影響は少ないものの、しばらくの間残留するのだとか。

 つまり一度戻ってきたら、半年間はインターバルを設けなければならないということだ。久米が気軽にプロジェクトに参加できなかった理由の一つもこれだろう。

 いや、そんなことはいい。重要じゃない。

 重要なのは、先輩には半年待つだけの猶予もない、ということだ。

 いや、確かに向こうの世界で本人の口から、数ヶ月も生きられないとは聞いていたけど……こっちの世界で言われると、嫌でもそれが事実だと突きつけられる。


「ところでリュウくん、よく私の居場所が分かったね」


 重くなった空気を和ませるように、先輩が話題を変えてくれた。

 いかんな、それは俺の仕事だろう。こういう時に気を使わせてどうするんだ。

 自分を叱咤しつつ、俺もその話題に乗ることにする。


「ああ、だって先輩、色々とヒントをくれてたでしょ」

「ヒント?」

「30階建てのビルみたいな病院とか、ピルグリムの宿とか。調べればすぐに分かりそうだし、そもそも同じプロジェクトに参加してるなら、同じ病院にいる可能性が高いかなって」


 向こうに接続する時も戻ってきた時もベッドの上だったが、恐らく薬で眠った後に専用の設備があるフロアに運ばれて、戻ってくる時も眠った状態で病室に運ばれたんだろう。

 そう考えると、俺と先輩はもしかしたら、隣同士で並んであっちの世界に接続していたのかもしれないな。


「あの時、先輩は俺に見つけてくれって言ってるんだと思ったよ」

「そんなつもりはなかったんだけど……言われてみれば確かにそうだね。もしかしたら無意識のうちに、追いかけてきて欲しいって思ってたのかも」


 そう言って先輩は笑った。

 その笑顔を見れただけで、戻ってきて良かったと思える。


「でもさ、ここの名前……っていうか表記は英語だよね。さすがに施設の名前をそのまま言うのはまずいかなと思って咄嗟とっさに誤魔化したんだけど……よく分かったね」

「それはまあ、翻訳すればすぐ分かるし」

「……翻訳。そっか」


 先輩は苦笑した後、少し影のある表情を浮かべた。


「ここの……巡礼者の宿っていう名前ね……皮肉な名前だなあって、来た時から思ってたんだ」

「というと?」

「ここに来るのは、祈ることを諦めた人だけだから」


 祈ることを諦めた人。

 その言葉はどうしようもない実感を伴って、俺の心に深く刻まれる。

 病気が治りますように。元の生活に戻れますように。そんな祈りを、諦めざるを得なかった人たち。

 先輩もここに来るまでに色々なことを諦めて、ついには祈ることを止めてしまったのだろうか。

 そういえば先輩の父親は、「あんなに無気力だった娘が」と言っていた。

 18歳で人生の終わりを宣告される。それはどんな気持ちなのだろう。

 俺が人生の終わりを感じた時は、圧倒的な暴力にただ怯えるだけだった。見つからないことを祈るだけだった。そして運良く俺は生き延びた。

 でも先輩の場合は、どんなに今を耐え忍んでも、それが過ぎ去ることはない。

 絶望というのはきっと、そういうことなのだろう。


「ナツ先輩、なにかやりたいことはない?」


 気付けば俺は、そんなことを口にしていた。

 同情と言われればそうかもしれない。あるいは自己満足の類かもしれない。それでも俺は、黙っていられなかった。


「やりたいこと……?」

「うん。なんでもいいよ」

「あー……死ぬ前にやりたい10のこと、っていうやつかな?」


 先輩の言葉に、俺は目を見張る。


「……結構、はっきり言うよね。先輩」

「ここにいる時点でもう、決まったことだし。濁しても仕方ないから」

「そっか……それで、何かない? 10個と言わず100個でもいいよ」

「さすがに100個もないかなぁ……」

「なんでも言ってよ。叶えられるかは分からないけど」

「うーん」


 先輩は少し考えてから、おずおずと上目遣いでこちらを見上げてくる。

 どんなお願いが来るかと思っていると、蚊が鳴くような声で、


「手をつなぎたい……」


 などとと言ってきた。

 なんだこの人。可愛すぎるだろ。


「はい。これでいい?」

「ひゃぁー……」


 小動物の鳴き声かな?

 ベッドの上の手を取って指を絡めると、先輩は変な声を出してふにゃふにゃになってしまった。

 まあ確かに俺たちは今まで恋人同士ではなかったから、きちんと手を繋いだこともなかったけど……それにしても初心うぶ過ぎるだろ。中学生でもこんなリアクションする子いないぞ多分。


「ていうか先輩、ひょっとして熱ある?」


 握った手は、やけに熱かった。

 照れて体温が上がるとかいう漫画みたいなこと、実際にあるのだろうか。


「……ないよ?」


 おっと、このリアクションは心当たりがあるな?


「ちょっと失礼」


 握った手はそのままに、反対の手で先輩のひたいに触れる。なにやらまた可愛らしい声が聞こえて来るが気にしない。

 ……やっぱり、明らかに熱い。


「先輩」

「ち、違うの。今朝は本当に、解熱剤で熱は下がってて……リュウくんが急に手を握るから……」


 解熱剤が必要なくらいの熱はあったと自白しているが……気付いてないのかな。


「薬の効果が切れたのかもね。とにかく、今日は休んだ方が」

「……やだ」


 思いがけず、繋いだままの手に、キュッと力が込められる。

 ダイレクトに感情を届けるその感覚にドキリとするが、それ以上に、握る力の弱々しさに胸が締め付けられた。


「明後日、また来るから」

「明日は来てくれないの……?」

「また熱が出るかもしれないでしょ」

「いいもん」


 もんって。なんか幼児退行してない?

 それとも、これが素の先輩なのだろうか。


「無理して俺と会うたびに先輩が消耗していったら、悲しいよ」

「……何もしなくたって同じだし」

「だとしても。俺は少しでも長く、先輩と一緒にいたい。明日、伯父さんと相談してみるからさ、二人にとって一番いいペースを探していこう」

「うー……」


 先輩は少しの間、子供みたいにぐずっていたけど、辛抱強く手を握って話し続けると渋々頷いてくれた。


 長い時間繋いでいた手を離す時、そして先輩がベッドに横になったのを見届けてから部屋を後にする時、自分の体の一部を引き剥がされるような喪失感と、寂寥せきりょう感が襲ってきた。

 今からこんな調子で大丈夫だろうか、と自分のことながら心配になる。

 ……いや、大丈夫な訳がないよな。

 きっと俺は色々なことを後悔するだろう。

 それでも俺は、先輩から距離を取るなんてことはもう二度としない。


 30階から自分の病室へ戻っていく時、自分は部外者なのだと思い知らされる。

 いっそ俺もそっちに行けたら、なんて少しだけ思った。








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