異世界か、胡蝶の夢か
最初に治療の説明を受けた時は、よくある意識接続型VRのようなものなんだろうと思った。地球をまるごとシミュレートした世界というのはあまりピンとこなかったが、まあ今の科学ならそういうこともできるんだろうと。その程度の認識だった。
しかし、仰々しい処置を受け、いざ実際に仮想世界に入ってみると、その圧倒的なリアリティに脳が混乱した。
風の圧力を感じる皮膚感覚、息を吸い込んで肺が膨らむ感覚、眼球の動きに追随する視界、足の骨と筋肉に乗る体重まで……全てが現実そのものだった。一瞬、自分は異世界に転移してしまったのではないかと錯覚するほどに。
鏡でこの世界におけるアバターの外見を確かめ、ここが確かに仮想現実であることを認識してから外に出た俺は、更なる衝撃に襲われることになる。
そこには、たくさんの人がいた。生きている人間だ。
この世界は従来の仮想現実のようにポンと組み立てられたものではなく、地球の歴史をシミュレートすることで、人類が進化する段階から作られているらしい。
現実側からのかなり多くの介入を経て――介入しなければ、人類は幾度となく滅亡してしまったらしい――およそ今から百年ほど前の文明まで高速で発展させたのが、この世界なのだという。
介入の影響か、それとも歴史の分岐によるものか、実際の過去とはだいぶ異なる部分も出てきてしまったらしいが、それらを完璧に修正することは困難を極めたため、よほど大きなズレが生じない限りは放置されたらしい。
ともかくこの世界は、そう、つまるところ……『生きていた』。
この世界に生きる人間と関わる際に生じるであろう問題は事前に予想されていたため、かなりしっかりと期間を設けて講習を受けた。
その一つが、かつて議論されていた思考実験、いわゆる『哲学的ゾンビ』だ。
現代においてこの思考実験は、既に成立し得ない過去のものとなっている。前提条件が覆ったためだ。つまり、意識……クオリアと、脳の特定の部位の機能との関係性が完全に解明され、活用される段階にまで進んだからだ。故に、哲学的ゾンビは脳を調べれば判別できる存在に成り果ててしまった。
だが、この仮想世界の人間たちには、依然としてこの思考実験が有効となる。
この世界の人間は、データ的には現実の人間と変わりなく、脳の機能も全く同じだからだ。
では彼らにはクオリアがあるのか? 彼らはデータ上の存在に過ぎないのに?
……といったことを、よく考えるようにと。
考えた上でどう付き合うのか、自分で判断しろと。そう言われた訳だ。
まあ、そう言われても選択肢は実質一つしかない。
PTSDを克服するためにこの世界に接続している俺は、この世界の住人は哲学的ゾンビであろうという認識で動くしかなかった。
こんなレベルのリアリティで、相手にもクオリアがあるとか考えていたら、そんなもの現実と変わらない。こいつらには意識なんてない、ただのプログラムだ。ものすごく精巧で、自分でも自分がプログラムだなんて気付いていないだけの……そんな存在だ。そう思って接するしかなかった。
確かにリアリティは凄まじかったが、さすがに百年も前の町並みを目にしてしまえば、ある程度の現実感は失われる。幸いなことに、俺はこの世界の人間と顔を合わせて話しても、フラッシュバックなんかが起きることはなかった。
このくらいの時代の文化などは事前に学習しておいたため、数日間の慣らし期間ですぐに順応できた。確かに不便ではあるものの、これはこれで面白い。これが二百年前だったら話は違っていたかもしれないが、この頃は既に現在の原型とも言える技術が発展し始めた時期だった。ある意味スローライフというか、心を休めるにはちょうどいいように思えた。
「あのさ、爪切り持ってない?」
「いや……」
持ってるわけないだろ。
つーか持ってたらお前は講義中に爪を切るつもりだったのかよ。
そう突っ込みたかったが、当時の俺はまだ他人に慣れていなくて、最小限の言葉しか出てこなかった。
「やっぱ持ってないかー。俺、スマホに爪がカツカツ当たる感じが嫌なんだよな」
「そうか……」
その後も特に聞いてもいないのに、そして講義中なのに、修はどうでもいいようなことを延々と話しかけてきた。
最初は俺も何か反応した方がいいのかと思って相槌くらいは打っていたが、だんだんどうでもよくなってきた。どうせこの世界の人間はプログラムに過ぎない。真面目に付き合ってやる必要なんてないんだ。
「……あのさ、さっきからなんなの? ちょい鬱陶しいんだけど」
「おっ、いいね」
「はあ?」
「やっとまともに話せそうだな。俺は望月修。お前は?」
「えっと……友田。友田龍」
「よろしくな、龍。俺のことも修でいいぜ」
「なんだこいつ……」
後で聞いたところによると、どうも俺はクラスで一人だけ浮いていたらしい。
これは修がそう感じたというだけで、本当に他の連中もそう思っていたかどうかは分からない。ただ、修はそんな俺のことが気になって、これは何としても攻略しなければと思ったそうだ。攻略ってなんだよ。
修と話すうちに、俺の意識は少しずつ変化していった。
特に大きなイベントがあった訳ではない。河原で殴り合いの喧嘩をした訳でもない。劇的なことなんて何もなくても、なんとなくいつも一緒にいるだけで、人と人は親しくなれるんだなと不思議に思ったくらいだ。
修はいわゆる、おもしれー奴だった。
突拍子もないことを言い出すし、予測できない。
こいつは間違いなく……生きている。自我がある。意識がある。そんな風に思うのは、始めての親友と呼べるくらいに修と親しくなれたからだろうけど……
つまるところそれは、現実でも同じなんじゃないか? と思ったのだ。
俺と関わりの薄い人間、例えば街ですれ違うだけの相手なんかは、それこそ意識のないモブのようなものだ。でも、いったん相手の人となりを知ってしまえば、それは明確な意識を持った人間へと自分の中で昇格される。そんなこと、普段から当たり前に行っていたことじゃないかと気付いたのだ。
この世界が作られたものだろうが、この世界の人間に意識があろうがなかろうが、そんなことは何の関係もなかった。
俺だ。
俺がどう思うかで、世界なんて容易く変貌する。
それに気付いた時、何か一つ、心の枷が外れたような気がした。
◆
「龍、どうしたんだ? 夏休みボケか?」
修に声をかけられて、俺は沈み込んでいた意識を浮上させた。
いつの間にか部室には、ほとんどの部員が揃っていた。
夏休みが終わり、また講義の日々が戻ってきた。
今は放課後で、部活の時間だ。
「いや……」
視線は自然と、一つの席に向かう。夏先輩がいつも座っていた席だが、今は誰も座っていない。
「ああ、先輩遅いな。どうしたんだ?」
「……わからん」
「友田、あなた連絡取れないの?」
芽多にも声をかけられるが、俺は黙って首を振った。
さっきから部員たちは、夏先輩が来るのを待っている。
でも、俺は知っていた。もう先輩がここに来ることはないということを。
「……
「ダメっす。メッセージにも既読つかなくて……」
「何かあったのかしらね」
そう言いながらも、芽多の視線は露骨に俺に向けられている。
夏休みの間に俺と夏先輩が特別な関係になったということは――そこに多少の誤解はあれど――部員たちの間に知れ渡っているだろうし、俺の態度がいつもと違うのもまた、何かあったと思わせるには十分だったのだろう。
「先輩は……」
俺が口を開きかけた時、コンコン、と部室の扉がノックされた。
部員たちの視線が一斉に扉に向かう。
夏先輩が遅れてやってきたのだろうか……一瞬だけ頭に浮かんだそんな想像を、すぐに否定する。
「どうぞ、開いてるわ」
芽多が声をかけると、控えめに扉が開き――
「やあ、皆さんこんにちは。突然失礼します」
――そこに現れたのは、身長2メートルはあろうかという筋骨隆々の大男だった。
黒いスーツに黒いサングラス、ドレッドヘアの男性は入り口をくぐるようにして部室に入ってくる。強烈なキャラクターの割にすっかり忘れていたが、尋常ではない存在感を放つその人物は、ここ
「けい……これは学園長、どうもこんにちは」
おい芽多、お前今警察って言おうとしなかったか? まあ気持ちは分かるが……
「こんにちは。ふむ……なるほど。全員揃っていますね」
学園長は手元のタブレットと俺達を見比べながら頷く。
手と体が大きすぎてタブレットがスマホみたいに見えるな。
「抜き打ちの査察ですか。ご苦労さまです」
「査察だなんて、そんな大げさなものではありませんよ」
「どうぞ。部の活動日誌と議事録です」
「これはどうも、拝見します」
いつ査察が来てもいいようにと、準備していた甲斐があったようだ。
芽多から渡されたノートをめくりながら、学園長は感心したように頷いている。
「素晴らしい。個性的な活動の中で、しっかりと青春を謳歌しているようですね」
やっぱり評価ポイントは青春なのか……と思っていると、
「あの……学園長、すみません。先ほど、全員揃っていると仰っていましたが……まだ三年生の先輩が来ていないんですが」
「ほう? その方のお名前は?」
「
「ふむ……少々お待ち下さい」
学園長はノートを片手に持ったまま、空いた方の手でタブレットを操作し始めた。
「三年生の
「えっ」
部室内がどよめく。
だが俺はなんとなく、そんな予感がしていた。
「退学って、どうして」
「夏休み中にご本人から退学届が提出され、受理されています」
呆然とする部員の面々を見て何かを悟ったのか、学園長はそれ以上多くを語らずに、部室を出ていった。査察はどうなったんだよと思ったが、まあ問題はなかったんだろう。
問題なのは、俺たちの方だ。
「友田先輩、どういうことっすか!?」
学園長が出ていってすぐに、向日葵が詰め寄ってきた。その表情には、困惑と怒りが見て取れる。
思えばこいつは、新入部員の顔合わせの時から夏先輩との距離が近かった。もしかしたら二人は、俺が思っている以上に仲の良い友達だったのかもしれない。
「俺に聞かれてもわかんねーよ」
「付き合ってるのに分からないなんて、そんなわけないじゃないっすか!」
「……あのな、誤解してるみたいだけど、俺と夏先輩は付き合ってないからな」
「嘘っす! 夏休み中、ほとんど毎日デートしてたのは聞いてるんだから!」
先輩……向日葵にどんだけ詳細な情報を流してるんですか……
ひょっとして俺たちが遊びに行った場所とか、ほとんど筒抜けになってるんじゃないのこれ?
「それはまあ……そうなんだが。本当に付き合ってないんだよ。事情があってな」
「っ……その事情っていうのが、なっちゃん先輩が退学したことと関係あるんすか」
「そうだよ」
ああ、そうだったんだよ。
最初は、俺だけが現実の世界から接続してるんだと思っていた。いずれ元の世界に帰らなければならない俺は、この世界でどれだけ人を好きになったとしても、その人とずっと一緒にはいられない。だから、せめて……学園を卒業する時に、禍根を残さないようにって……そんなことを思っていたんだ。
ところがそれは、夏先輩も同じだった。
告白までしておいて恋人同士にはならないなどという、そんな提案を受け入れてくれたのは、あの人にとってもその方が都合が良かったからだ。
でもさ……それは、違うだろ?
俺と夏先輩だけは、違う。俺は知らなかったけど、先輩は俺のこと、同じ現実から接続してるって、分かってたんだろ?
それなのに……なに勝手に決心して、部員たちにお別れの挨拶もせずに、行っちまうんだよ……
あんたにとって俺は、そんな簡単に切り捨てられる存在だったのか?
あんたにとってこの部は、その程度のものだったのかよ。
くそ、考え始めたら腹が立ってきた。
「おい芽多、と修。悪いが、俺はしばらく学園を休むぞ」
「……どういうこと?」
「夏先輩を探しに行く」
そうだ。このままって訳にはいかない。
本当はもっと早く行くべきだったんだろうけど、もしかしたら夏休み明けの今日、ひょっこり部活に顔を出すんじゃないかなんて淡い希望を抱いていたんだ。
でも、学園長の口から退学のことを聞けたおかげで、はっきりした。先輩の気持ちも、自分が何をするべきかも。
幸い、探すアテはある。といってもかなり微妙なラインではあるけど……
「それは結構だけど、探してどうするつもり? もう退学届は受理されているのよ」
「まあ、そうだな。だから連れ戻すとかそういうことはできない、と思う。それでも俺は行かなきゃならん」
「そう……好きになさい」
呆れたような声を出しながらも、芽多は笑っていた。
最後にレアな笑顔をありがとよ。
「龍……お前は、戻ってくるのか?」
修に言われて、俺は一瞬、言葉が出てこなかった。
修は何も事情を知らないはずだが、俺の様子から、何かを悟ったのかもしれない。
これも主人公補正ってやつか? などと、下らないことを思う。
「正直……わからん。出たとこ勝負だ」
「そうか。勝負なら勝たねーとな」
「ああ、そうだな」
二人でよくわからないやり取りをした後、「新しい部員の募集はしておくわよ」という芽多の優しいんだか優しくないんだかわからん声を背に、俺は部室を後にした。
……いや、まだ来たばっかなんだけどね。なんとなく、出ていく流れかなって。
まあ、部室を出たところで追ってきた向日葵と天世に飛びつかれて、「戻ってこないってどういうことっすか!」とかマジ泣きされて、しばらくウダウダすることになったので、結局のところ格好はつかなかったんだけど……
それでもまあ、別れを惜しんでくれる人がいるというのは、悪い気分ではない。
先輩にもそのことを伝えなきゃな。
◆
その後俺は、久しぶりに医務室に向かった。
夏休み前は先輩と一緒に帰ることが多くなっていたから寄る機会がなかったし、そこから夏休みを挟んだおかげで、本当に久しぶりだ。
「こんにちは」
いつ来ても全く変わらない黒髪ポニーテールの健康相談員の女が、俺を出迎える。
他に利用者はいないようだ。
「現実世界に戻る」
俺は手短に要件を伝えた。
「離脱要請が承認されますと、キャンセルできません。よろしいですか?」
AIは話が早くて助かるね。
別に手続きは
「いいよ。なるべく早く頼む」
「承知しました……要請が承認されました。現実世界の肉体を活性化するために、今から26時間29分54秒の待機時間が発生します。待機時間終了とともに即座に離脱しますので、それまでにアバターを所定の場所に移動させて下さい」
「了解」
あと一日か。
特にすることもないが、最後にもう一度あの海を見ておこうかな。
そんなことを考えながら、俺は医務室を後にした。
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