哲学的ゾンビは空の青海のあをにも染まず

 向日葵ひまわりの風邪が治り、三日ぶりに部活動が再開された。

 再開と言っても、この三日間完全に活動を停止していた訳ではない。向日葵を除く部員全員が、放課後は部室に集まっていた。

 集まってはいたが……やっていたことと言えば、これまでの活動をまとめたり、ダラダラお喋りしたり、ゲームをしたりしていた。つまるところ、ラノベとかでよくある、何の活動をしているのかよくわからん部になっていたのだ。

 そんな状態に対して俺は、これこれ、こういうの求めてた、と個人的に喜んでいたのだが、向日葵が戻ってきたことで、芽多先生の講義が再開される運びとなった。

 なってしまった。

 まあ、向日葵の調子が戻ったのは喜ばしいことなので、文句はないけど。


「今日は病み上がりの向日葵さんに配慮して、有名で簡単なお話にしましょう」


 そう言って芽多はホワイトボードに『哲学的ゾンビ』と書いた。


「聞いたことがある人も多いんじゃないかしら? 『哲学的ゾンビ』以外にも、例えば『中国語の部屋』や『スワンプマン』なんかも有名ね。どれも違うお話だけど、どこか似ていて、とてもわかりやすい思考実験だわ。こういう取っつきやすいお話は私も好きなのだけど、今日は『哲学的ゾンビ』を取り上げようと思います。せっかく哲学っていう名前がついているのだしね」


 芽多は、さも「皆さんご存知の通り」みたいな感じで話しているが、向日葵と天世は頭に疑問符を浮かべている。夏先輩はいつも通りの無表情。修も表情が分からないという意味では似たようなものだが、前髪が長すぎるせいだ。はよ切れ。


「……すまん、芽多が思っているほどその話は有名じゃなさそうだから、一から丁寧に説明してもらえると助かるんだが」

「そう? ……そうね」


 俺の意見に、芽多は素直に頷いた。以前のように事あるごとに嫌味を言ってこなくなったのは、間違いなく修と付き合い始めたおかげだろう。心に余裕が生まれれば人は寛容になれるという良い見本だな。修には感謝しなければ。


「哲学的ゾンビというのは、簡単に言えば意識だけが死んでいる人間のことよ」


 そう話しながら芽多は、ホワイトボードにデフォルメされた人の輪郭らしき絵を描いていく。その中に『意識』と書き、その上から✕を書いた。


「意識は死んでいる。にも関わらず、この人はまるで普通の人間のように、違和感なく振る舞うの。ここがゾンビ要素ね」


 輪郭だけだった人物の顔に、これまたデフォルメされた可愛い目や鼻や口が書き足されていく。ついでに漫画の吹き出しのようなものが書かれ、そこに『ぼく普通の人間でーす』という間抜けなセリフが追加される。


「このゾンビは生きている人間と寸分違わない。脳細胞の一つを取っても完全に一緒だから、解剖しても違いを見つけることはできないわ。つまり、その人がゾンビなのか、正常な人間なのかを外から判別することはできないの」

「……脳細胞の全てが正常な人間と同じなら、それは普通に意識があるということになりませんか?」


 天世が手を挙げて質問した。ちゃんと合いの手を入れてくれるこいつは、きっと教える側からしたらいい学生なんだろうな。


「そう、その疑問こそが、この『哲学的ゾンビ』が生まれた肝の部分と言えるわ。人の意識……感覚的な経験や、主観的に感じる質感、『識っている』『感じ』……これらを簡単に呼び表すために『クオリア』という言葉を使うけど、このクオリアをうまく説明するための思考実験として生み出されたのが哲学的ゾンビなのよ」

「なるほど……?」

「あのー、あたしも質問なんすけど……『主観的に感じる質感』っていうのは、つまりどういうことっすか?」


 芽多がホワイトボードに書き連ねていく文字とにらめっこしながら、今度は向日葵が発言する。できたてカップル同士、仲良く部活動に参加していて微笑ましいね。


「そうね……例えば、空を見て青いと感じる、あの『感じ』を貴女は『識って』いるわよね?」

「えっと、まあ、空が青いってことは知ってるっすけど……」

「以前少しだけ取り上げた『メアリーの部屋』でも触れたけれど、白黒の世界で生まれて他の色を見たことがない、けれど色について完璧に理解しているという人間が、色のある世界に出たときに……ああ、その様子だと覚えていないみたいね」

「あ、あはは……申し訳ないっす」


 メアリー……? そんな話してたか? とか思ってしまった俺は、どうやら向日葵と同類だったらしい。たぶん普通に寝落ちしてたか、興味なくて記憶から消えてたんだろうな。


「まあいいわ。それで、ずっと白黒世界で生きてきたけれど、色に関しては100%の知識を持っているメアリーは、ある日初めて色のある世界に出てきて空を見上げた。さて、色に関する知識が完璧な彼女は、そこから新たに学ぶところがあると思う?」

「そこは普通に、あるんじゃないっすか? 初めて本物の色を見るんだし……」

「それよ」

「それ?」

「貴女が今想像したその感覚。メアリーが青空を見上げた時のことを想像する、その感覚。それがクオリア」

「おー、なんとなく、わかったような……わからないような……」


 まあ、わかるようなわからないような感じになるのは仕方ない。

 一番最初に芽多も言っていたが、クオリアってのはつまり意識のことだ。意識の中にある細々とした小難しい部分を言い換えているだけとも言える。

 自分が世界を感じていること。

 直観、知覚、体験に基づく心の動き。

 自分はまず意識ありきの存在だから、それを改めて定義しようとすると小難しい話になってくるわけだ。


「さて、少し回り道をしたけれど、哲学的ゾンビにはそのクオリアがない、ということね。クオリアがなくても家族とは違和感なく話せるし、映画を見て涙を流すこともできる。親身になって友人の相談に乗ることもあるし、恋人や子供ができることもある。泣くし、笑うし、怒る。時には……そうね、哲学的ゾンビについて議論することだってあるかもしれないわ。でも、実際の所その内面は、完全に死んでいる。そこに人間的な意識はなく、何も感じていないの」

「なんか……ロボットみたいっすね」

「外的要因に対して人間と同じ反応を返すという点で見ると、確かにSFで描かれる人間そっくりのロボットめいた部分はあるわね。まあそれはどちらかと言うと『中国語の部屋』の領分だけど」


 中国語の部屋……人工知能についての思考実験だな。

 部屋の外から与えられた中国語の文字列に対して、中国語を知らない中の人は決められたマニュアルに沿って対応する文字列を返す。中の人は自分がやっていることの意味を一切理解していないが、外から見ればその部屋の中には中国語を理解して質問に答えてくれる人がいるように見える。

 発達したAIは限りなく高い精度で感情を持っているかのように振る舞うことはできるが、それはあくまでも外部からのインプットに対して複雑な処理を経たアウトプットを返しているだけで、感情云々とは関係がない、と。

 ……俺がこの件に関しては詳しいってことを芽多に知られたら面倒なので、わざわざ口を挟むつもりはないけど。


「さて、元々はクオリアの説明のために用いられたものだけど、あなたたちは哲学的ゾンビについてどう思うかしら?」


 ここからは自由討論……と言えば聞こえは良いが、雑談タイムだ。芽多がお題を出し、説明をして、その後は好き勝手に意見を出し合う。芽多先生の講義ことメタ部の部活動では、大体こういう流れになっている。答えを出す必要はないし、そもそも思考実験なんて、答えのないことを延々と屁理屈こねくり回すようなもんだしな。

 ……これはちょっと暴言過ぎるから芽多には言わないでおこう。


「あたしは……ちょっと怖いっすね。例え話だってわかってはいるんすけど、何も感じていない人が隣にいても気づかないっていうのは、ホラーっすよ。ゾンビだけに」

「そうね。でも、隣にいるのが普通の人間でも、頭の中で何を考えているかを本当に理解することはできないわよね。そういう意味では違いはないかもしれないわ」

「あー……それは確かにそうかも……」


 向日葵と芽多のやり取りを見ていた天世が、続いて口を開く。


「オレはちょっと主題から外れるかもですけど、ゾンビ的な要素として、感染っていうのがあったら面白いかなと思いました。面白いっていうのもアレですけど」

「なるほど。意識だけを殺すゾンビウィルスね。……例えば、そのウィルスはとっくの昔に全人類に感染していて、実はこの世界に意識を持つ人間なんて一人もいなかった、なんていうのも面白いわね」

「それは怖い。なんかそういうオチの映画とかありそうですね」


 楽しそうに話すね。

 一年生カップルの二人は完全にこの部のムードメーカーだな。こいつらがいなかったらと思うと恐ろしいよまったく。


「……実は、それに似たような説もあるわ。そもそも意識というものは脳が分泌する化学物質や電気信号が生み出した幻で、人類全ては最初から意識なんて持っていないという主張よ。つまり、私たちは皆、生まれた時から哲学的ゾンビだということね」


         ◆


 今日の部活は、過去一で疲れた。

 疲れたというか、きつかった。

 まったく皮肉が効き過ぎているぜと、笑ったものか、泣いたものか。


 芽多は、この世界は恋愛ゲームだと言っていた。

 それはつまり自分自身が哲学的ゾンビだと主張しているってことだ。

 あいつは一体どんな気持ちで、哲学的ゾンビについて話していたのかね。

 ああ、『気持ち』なんて存在しないんだったか。


 そんな、くたびれたような気持ちでいたせいか。


「海……行かない? これから……」

「え? あー……いっすよ」


 帰りの電車を待つ駅のホームで、夏先輩からの提案に、俺は特に深く考えずに返事をしていた。


 まあ、学校帰りに海に行きたいというのは、夏先輩の『青春リスト』のひとつとして聞いていたことだ。そのうち機会があれば、なんて言っていたけど、今がその機会なのかもしれない。


 俺たちは普段降りない駅で降りて、違う電車に乗り換えた。

 そこから二駅ほど行けば、目と鼻の先に海岸がある駅へと到着する。CMやドラマなんかでよく使われているらしい、ロケーションの良い駅だ。


 有名な場所だけあって、平日の夕方でもそれなりに人がいた。

 俺と夏先輩は適当に砂浜を歩きながら、なんとなく人々や海を眺める。

 足元の砂の柔らかな感触に、なかなか慣れることはない。


「今日……あんまり元気ないね……」

「先輩も、あんま元気ないっすね」

「え……わかる……?」


 うわ、適当に言っただけなのに当たってしまった。いらんミラクルだ。


「いや全然。適当に言っただけです」

「……ふふ」


 先輩の口元が、ほんのわずかに緩む。

 それは、よく注意して見なければ分からないくらいの変化なのに、傾き始めた陽の光と相まって、どこか強烈な印象を焼き付ける。


「今、元気になったよ」

「そりゃめでたい」


 波の音に、風の音、はしゃぐ子供の声、車の音……意外と海は騒がしい。

 それでも先輩の小さな鈴のような声だけは、別レイヤーのように耳に届く。


「……ドラえもんは、哲学的ゾンビなのかなあ」

「どっちかっつーと、中国語の部屋ですかね」


 この人と一緒にいると、不思議と気が抜ける。

 この時の俺はそのことを、一切疑問に思っていなかった。








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