夜の学校は人の口を軽くするらしい

 週末の夜、21時頃。

 俺たちは静まり返った部室棟を訪れていた。


「もうちょい人がいるかと思ったんですけど、見事に誰もいませんね」

「なんだか悪いことしてるみたい……」

「そりゃどちらかと言えば、悪いこと寄りでしょうけど」


 俺は部室の鍵を開けつつ、さっきから後ろでキョロキョロと挙動不審な動きをしている小さな人影に目を向ける。

 私服の夏先輩は、オーバーオールにキャップという、かなり予想外な服装だった。さらに長い髪を三つ編みにしていて、普段とは全然違う印象だ。もしかしたら、変装しているつもりなのかもしれない。

 しかし、そんな姿も妙に似合っている。不思議なものだ。


 夏先輩と「青春っぽいこと」を一緒にやるという約束をしてから、最初に提案されたのが、夜の学校に忍び込むことだった。

 最初に思いつくのがそれかよと思ったものの、どうやら先輩は漫画などの影響を強く受けているらしく、そういう不良っぽいことに憧れがあるらしい。まあお嬢様みたいなものだと自分でも言っていたし、わからんでもない。

 しかし夜の学園は当然ながら機械的なセキュリティが入っているので、忍び込んだり、どこかに隠れていたりすることはできない。妥協案として、そういったセキュリティのない部室が選ばれたというわけだ。


「ほら先輩、早く入って下さい」


 夏先輩を部室に招き入れて、ようやく一息つく。

 深夜ならともかく、このくらいの時間なら見つかったところで別に咎められることはないと思うが、そこはまあ念のためだ。


「わあ……知らない場所みたいだね」


 夏先輩は、部活でいつの間にか定位置になっていた椅子に腰掛けてそう言った。

 電気をつけていないので暗くて表情はよく見えないが、声色が少し和らいでいるように感じる。


「友田くんと天世くんの話を聞いてから、ちょっと羨ましいなって思ってたんだ。だから嬉しい、かも」


 向日葵の件で俺と天世が張り込みをした時のことを言ってるんだろうけど、あれはそんな羨むようなものじゃなかった。むしろ修羅場というか、ヒリつくような緊張感が漂っていた。この暗い部室で聞かされた向日葵の話も重かったし……もしもあの時夏先輩も張り込みに参加していたら、今のように喜んでいられただろうか。

 などと少しいじわるなことを考えながら、俺は先輩の対面に座って、買ってきたものを鞄から取り出した。缶入りの飲料や小瓶を何本か。それらを長机の上に並べる。窓から差し込む電灯の光が鈍く反射した。


「先にメッセージでも送っておきましたけど、バレるとヤバいから小声でお願いしますね。あと、電気もつけられないんで……こんなものを買ってきました」

「これ……お酒?」

「ノンアルコール飲料です。本物の方が良かったですか?」

「お酒は飲んだことないよ……」


 夜の部室に忍び込んだところで、じゃあ何をするのか、という話になる。忍び込むこと自体が目的なのだから、長居をする必要はないだろうけど、来て即帰るというのも味気ない。とはいえ俺と夏先輩じゃ会話もそんなに長続きしないだろうし、せめて間を持たせられるようにと考えたのが、酒だった。

 俺も夏先輩も成人しているので飲酒自体は問題ない。しかし、前に向日葵から聞いたところによると、この学園の規則では敷地内での飲酒は禁止らしい。万が一見つかった時に、規則に違反しているのとしていないのとでは雲泥の差だ。それに、夏先輩がめちゃくちゃ酒に弱かったり、あるいは酒癖が悪かったりしたらヤバそうだなと思って安全パイを選んだのだった。


「友田くんは、よく飲むの? お酒……」

「いえ、俺は体質的に酔えないんで。あ、どれでも好きなのどうぞ」

「ん……ありがとう」


 夏先輩に勧めつつ、俺も小瓶に手を伸ばす。

 うん、変な味のジュースだ。普段酒を飲まないから、これがどれだけ本物に近いかわからない。こういうものなのかな~という雰囲気を飲むものだな、これは。


「あ……おいしい」

「本当すか。当たりですね」


 夏先輩はお上品に片手を口元に添えながら、梅酒っぽい缶を見つめている。梅酒からアルコールを抜いたら梅ジュースだからな。普通においしいのかもしれない。


「なんだか不思議……夜になって、光が少なくなっただけなのに……いつも使ってる部室が、ちょっと神秘的な場所に見える」

「そうですか」

「まるで夢の中にいるみたいな……あ、」


 夏先輩は何がおかしいのか、途中で何かに気づいたみたいに言葉を途切れさせると、くすくすと笑い始めた。

 まさか酔ってんのか? と一瞬思ったが、全てノンアルコールなのは買う時に確認したから間違いない。いわゆる雰囲気に酔うというやつなのだろう。


「先輩が笑ってるの、珍しい」

「そう?」

「そっちのほうがいいっすよ」

「そうかな……ふふ」


 俺も雰囲気に任せて、普段言わないようなことを言ってみたが……やはり小っ恥ずかしい。本当に酔っていたら、「笑顔の方が可愛いですよ」とか言ってたかもしれない。そう思えば、シラフで良かったとも言える。


 それから少し、無言の時間が続いた。

 いつもの帰りの電車と同じはずなのに、辺りが静かだから、嫌でも夏先輩の存在を意識してしまう。

 冷静に考えれば、恋人どころか友達というカテゴリですらなさそうな二人が、こうして夜の部室で二人きりというのは……なんとも非現実的だ。こういう独特な時間こそがが青春なのだろうか。恥ずかしいというかむず痒いというか、こんな思いをしているのだから、少しでも先輩の青春ポイントに貢献できていればいいのだが。

 そんなことを考えていると、ぽつりと先輩が話し始めた。


「……私ね、皆に言えない秘密があるの」

「ほう」

「でもいつか……話す日が来ると思う」

「別に、言えないことなら無理に話さなくてもいいと思いますけど」


 あれ? 似たようなやり取りを、以前どこかでしたような気が。


「皆には言えないこと……だけど、友田くんにだけは言えること……」

「はは、なんすかそれ」


 字面だけを見れば心がときめいてしまいそうな言葉だが、陰になった夏先輩の表情は、とてもそんな浮ついたものではなかった。軽く笑い飛ばそうとして、失敗する。

 部室の空気はどこか重さを増したようだった。


「あ」


 そこでふと、俺は思い出した。

 少し前に、夏先輩と部室で話をした時のことを。


『向日葵と俺は、似てるんですよ。他人と関わるのが怖くて……でも、それを克服しようと頑張ってる。同じような境遇だからこそ、なんとかしてやりたいって思う。俺も……その……』

『……ごめんね、話したくなければ、話さなくていいよ』

『いや……なんつーか。すんません。でも、いずれ……』


 言えない秘密の一つや二つ、誰しもが持っているものだろう。俺だってそうだ。

 そして俺はあの時、その秘密を夏先輩になら話してもいいと思った。正確には、話したいと思ったんだ。

 秘密は自分の中に隠しているからこそ秘密でいられる。それを他の誰かに話した途端、それはもう秘密でもなんでもなくなる。それでも話したいと思うのは、秘密というものの重さに耐え続けることが辛くなってくるからかもしれない。


「……先輩、覚えてます? 前に、部室で……いずれ話すとか……俺、なんか意味深なことを言っちゃって……」


 覚えていないなら、それはそれでいい。無理に話す必要もないし、話したところでどうってこともない。ただ少し、秘密を分け合ったという自己満足で俺が楽になるだけだから。


「桜ちゃんと似ているって言ってたこと……? 同じような境遇だって……」


 それなのに。

 なんでこの人はそこまで細かく覚えてるんだよ。記憶力すげえな。


「そう、それです。……聞きたいすか?」

「友田くんが話してもいいと思ったことなら……聞きたい」


 夜。暗い部室。アルコールに似せた飲み物。

 自分に言い訳をする材料は嫌ってほど揃っている。

 きっと俺はこの学園に来てからずっと、誰かに聞いてほしかったんだ。


「実は、俺、自分以外の他人が怖かったんですよ。姿を見たり声を聞いたりするだけで怖くて、手が震えて、めまいがするくらいに」

「……そうなの?」

「そうは見えないでしょ」

「うん」

「この学園には、その治療のために通ってるんです。最初は半信半疑だったんですけどね、今では自分でもびっくりするくらい良くなっちゃって」

「治療……のために……学園に?」

「はは、俺も最初は同じリアクションしてましたよ。よくわかんないですけど、新しい治療法みたいなやつらしいですね。学園側にも全面的に協力してもらってるんで、勉強ができなくても卒業できるとか」

「そうなんだ……」


 修にすら話していないことなのに、なぜか夏先輩には自然と打ち明けてしまった。

 この人が特別なのか? いや、シチュエーションのせいか。少なくとも、話したことを後悔してはいない。別に他の誰かに話されてもいいやという思いと、この人はきっと誰にも話さないんだろうなという謎の信頼が同居している。


 一生付き合っていくしかないと思っていた俺の症状は、この学園に来てわずか一年足らずで劇的に改善されてしまった。も大丈夫かどうかは分からないが、少なくとも表面的な人付き合いくらいは出来そうな自信はついた。

 治療に三年と聞いた時は長いと思ったが、学園生活で考えれば短いくらいだ。

 俺はここを去る時、名残惜しいと感じるのだろうか。


「友田くん……あのね、あの……」

「なんすか?」

「……私も、いつか話すね」

「はあ」


 夏先輩は、何故か俺の顔をじっと見つめていた。

 ただでさえ乏しい表情は暗闇に紛れて、今の俺ではその下に隠された感情を読み取ることはできそうにない。

 ただ、何か。俺が秘密を打ち明けたことが、彼女の何かに影響を与えたのかもしれないと、漠然と思った。








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