そして短い夏が始まる

 電車に乗った後、なつ先輩はいつものように俺の隣に座った。

 つい先ほど、唐突な告白みたいなものをカマして断られたばかりとは思えない落ち着きようだ。何事もなかったかのようなその態度に、俺の頭の中はますます疑問符で満たされていく。

 この人は一体何がしたいんだ?


「先輩、一応理由を聞いてもいいですか」

「理由……?」

「さっきの。恋人がどうのってやつ。先輩、別に俺のこと好きとかじゃないでしょ」

「……ごめんね。私、今までそういう経験が一度もなくて……どういうのが好きっていう気持ちなのか、よくわからないのは……うん、その通り……」

「まあ、それはいいんですけど。じゃあなんであんなこと言ったのかなって」

「実は……桜ちゃんと天世あまよくんがお付き合いを始めたらしいんだけど……」

「えっ、いつ?」


 おっと、つい条件反射的に聞き返してしまった。確か夏先輩は最初の顔合わせの時に向日葵ひまわりと連絡先を交換していたから、俺が知らないだけで頻繁にメッセージのやり取りをしているのかもしれない。

 つーかあいつら付き合い始めたのか。天世も水くさいな。俺に教えてくれてもいいじゃないか。


「ついさっき……『真くんがお見舞いに来て、なんか流れで』……だって」


 夏先輩はスマホを確認しながら呟いた。

 お見舞いってことは、部活が終わった後だからマジでついさっきじゃん。

 すまん、天世。こっちの情報が早すぎただけみたいだ。


「そりゃまたなんとも、タイムリーな話題で」

「うん……ニュース速報……」

「そんなプライベートな速報、俺に流していいんすか」

「あっ……でも、おめでたいから……」

「そっすね……」


 おめでたくはあるが、一応本人たちに許可は取った方がいいと思うけどな。この人、意外とそういうところ抜けてるな。


「それでね……いいなあって……私もそういう経験してみたいなって思って」

「それでさっきの恋人になってくれって話に繋がるわけですか」

「うん」


 俺は深くため息をついて、中吊り広告を見上げた。芸能人の不倫がどうのという見出しの、ゴシップ誌の広告が目に入る。あっちもこっちも色恋沙汰か。なんだかな。


「一応言っときますけど、そういう誰でもいいからみたいなの、やめた方がいいと思いますよ。世の中にはとんでもねえゲス野郎もいるんですから。遊ばれるだけならまだしも、それをネタに脅されて一生を棒に振るなんてことになったら」

「誰でもよくはないよ」

「取り返しがつかない……え?」

「友田くんだからお願いしたの……誰にでもってわけじゃ、ないよ」

「……あ、そすか」


 あー……電車はいいな。密やかなお喋りも、気まずい沈黙も、等しく走行音が覆い隠してくれる。時間さえ過ぎればやがて目的地に着くというのも実にいい。まるで人生みたいだ。


「あーと……一応、なんで俺なのか聞いてもいいですか? 余ってたから?」


 俺は自慢じゃないが、女性経験がない。完全にゼロだ。だから変なのに騙されないようにと、普段から心の壁を厚くして備えている。

 だけど、こんな風に直球で来られると、うっかり陥落しそうになってしまう。俺の心の中にいる無垢な少年部分を守るためには、理屈と理論でファイティングポーズを取るしかないのだ。


「友田くん、『ドラえもん』好きでしょ?」

「はあ?」


 ……なんだって?

 本当にこの人は、予想がつかない。なんだそれ。次にどう来るか予想して身構えていたのに、全部無駄になるようなこの感じはどうだ。


「まあ嫌いじゃないですけど……つーか好きとか嫌いとかのジャンルを越えてる作品じゃないすか?」

「私も好き……だから……」

「だから?」

「うん……」


 え? 終わり? 俺がドラえもん好きっぽいから、恋人になってくれとか言ったってこと? どういう理屈?


「すんません。ちょっとよくわかんないっす」

「そう……?」


 小首をかしげるんじゃないよ。あんたが可愛いってことしかわかんねーよ。

 いや、騙されるな。意味不明なまま可愛さだけで押し切られそうになってるぞ。

 ここは少し話題を変えよう。


「先輩って、なんか世間知らずっつーか、お嬢様みたいな感じですよね」

「お嬢様……は、そうなのかも」

「あっ、本当にそうなんだ」

「わからない……けど、世間知らずっていうのは、その通りかも。私は知らないことが他の人より多いから……恋愛も、わからないから……知っておきたいの」

「はあ、アレだ。青春したいっていうのもその一環で?」

「うん……そう」

「つまり色々経験しておきたいと」

「そう……もうすぐ……」

「もうすぐ?」

「卒業だから……」

「卒業って、まだ全然先じゃないですか」

「……ふふ、そうかもね」


 ずいぶん、寂しそうに笑う人だということを、俺はその時初めて知った。

 場違いなドラえもん発言で気が緩んで、その綺麗な顔を……というか、夏先輩という人間そのものを、まるっと一つの個人として、ようやく認めて直視できるようになったのかもしれない。

 普段はほとんど無表情なのに、こういう時だけ笑うんだな。そんな、何かを諦めたような顔で……

 俺は自分でもよくわからないけど、その顔がどうにも気に入らなかった。


「恋人ってのはナシですけど、それっぽいことなら、付き合いますよ」

「えっ……?」

「青春ってやつ、俺もあんまり体験したことないんで」


 今日は本当に、言語化できないようなものに振り回されている。

 先輩はなぜ俺を選んだのか。

 俺自身も、なぜ急に条件付きとは言え、面倒くさそうなことに手を貸す気になったのか。

 なにもかも、よくわからない。

 ただ……向日葵に恋人のフリをしてくれと頼まれた時とは明らかに違う何かを、俺は感じていた。

 強いて言うなら、それが何なのかを確かめたかった……のかもしれない。


「いいの……?」

「まあ、どうせヒマなんで。それで、具体的に何をするんですか?」

「えっと、えっとね……」


 夏先輩は、ワタワタとスマホを取り出して操作し始めた。やりたいことの一覧でもメモしてあるのかもしれない。一人で、いつかやってみたいことを思いつくたびにメモをして……それは容易に想像できる光景だった。

 健気な、子供のような……そういう振る舞いは、直視できないような眩しさを感じさせる。もしもそれを意識してやっているとしたら、相当な演技派だろう。もしそうだった場合はもう、完全に俺の負けだ。素直に降参しよう。


 そんなことを考えながら、ちらりと盗み見た先輩の横顔は、心なしか微笑んでいるように見えた。








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