雪と桜

 向日葵ひまわりさくらは小さい頃から、物静かな子供だった。

 小学一年生になって一ヶ月が過ぎても、彼女は自分からクラスメイトに話しかけることが一切できなかった。それくらい引っ込み思案で、気が小さく、オドオドした子供だった。当然、友達なんてできるはずもない。彼女自身もそう思っていた。


 しかしある時、別のクラスの女の子に声をかけられた。

 彼女の名前は桜峰さくらみねゆき。活発でキラキラした、光のような子だった。

 彼女が向日葵に声をかけたのは、単純な理由だった。それは、自分の名字と、向日葵の名前が、同じ「桜」だったから。たったそれだけの理由で見知らぬ他のクラスの子に声をかけられるくらい、彼女は外向的な性格だった。


 向日葵桜と桜峰雪は、やがて親友になった。正反対のような二人は正反対であるがゆえに、ぴったりと噛み合ったのかもしれない。

 向日葵は桜峰の前では、普通に喋れるようになった。それどころか、立場が逆転することすらあった。

 二人はお互いを信頼していたし、お互いのことが大好きだった。


 しかしある日、最初で最後のすれ違いが起きた。


 その日二人は、近くの河原で遊んでいた。水遊びは危険だからと止められていたため、遊びの中心はおままごとのようなことばかりだった。

 向日葵は家から、お気に入りのぬいぐるみを持ってきていた。初めて母親に買ってもらった猫のぬいぐるみで、名前もつけて可愛がっていたものだ。

 桜峰に貸してとせがまれても躊躇してしまうくらいには、気に入っていた。

 それでも二人は親友だ。親友に何度も貸してと言われては、拒み続けるのも心苦しい。向日葵はしぶしぶぬいぐるみを手渡した。

 桜峰はそのぬいぐるみでおままごとを始めた。子供をあやすようにぬいぐるみを放り上げ――受け取り損ねたぬいぐるみは、川に落ちた。

 川の流れは見た目以上に早い。二人は走って追いかけたが、ぬいぐるみはぐんぐん流されていき、やがて見えなくなった。

 向日葵は、涙を流して桜峰を罵った。

 バカ、大嫌い、雪ちゃんなんてもう友達じゃない。

 それが親友に告げる最後の言葉になるなんて、考えもしなかった。


          ◆


「――次の日、雪ちゃんは学校に来ませんでした。あたしが帰った後もぬいぐるみを探して、川に落ちて……亡くなったんです」


 外から差し込む電灯の光に照らされた向日葵の顔は、死人のように血の気が失せて見えた。部活でアホな発言をしている時と同じ人物とは、とても思えない。


「あたしが殺したようなものなんすよ。あんなひどいこと言われたら、もう、川に入ってでも探すしかないじゃないですか。そもそもあたしがぬいぐるみなんて持っていかなければ良かったのに。最初から友達になんてならなければ良かったのに。そうすれば今でも雪ちゃんは生きて、自分の人生を歩んでいたはずなのに。あたしが殺したんです。あたしが……」


 そんなことはない、と天世あまよが何度声をかけても、向日葵には聞こえていないようだった。いや、聞こえていても、届かないのだ。そんな言葉に意味はない。


「それで? その後お前はどうしたんだ。そうやってウジウジしたまま腐っていったのか? 違うよな。向日葵桜は派手なピンク頭の陽キャとしてこの学園にいる。内面はどうあれ、お前なりに考えて、前を向くことを選んだんだろ?」


 俺が声をかけると、自分が悪いと呪詛のように呟いていた向日葵は、ピタリと静かになった。


「……雪ちゃんが亡くなった後、あたしはまた一人ぼっちになって。誰かと友達になることが怖くて、自分から距離を取るようになりました。そうしているうちに中学に入ると、いじめられるようになりました。毎日が辛くて……でも、変わらなきゃって、思ったんです。このまま自殺なんてしたら、雪ちゃんに申し訳ないって。あたしが彼女のぶんも生きなきゃって……」

「ほう、自分で乗り越えたのか。大したもんだ」

「いえ……多分、カウンセリングの先生の受け売りっすね。でも、その効果はあったみたいで」


 カウンセリング受けてたのか……まあ、親のファインプレーってやつだな。

 精神状態がヤバくなった時点で有効な手を打って、借り物の言葉でも前を向けたのは、数あるシナリオのうちではかなりマシな方だったに違いない。


「遠くの高校を受験して、高校デビューってやつをしてみて……あたしは雪ちゃんみたいに、明るい性格の自分を演じました。そうしたら中学みたいにいじめられることはなくなって、普通に喋れる人もたくさんできて……でも、やっぱりどこかで一線引いちゃうんです。ある程度までは近づけるけど、友達とか、そのくらいの距離まで行きそうになると身を引いちゃうっていうか……怖いんすよ」


 うーん……ちょっとわかってしまう自分がいる。俺も友達ほとんどいないからな。


「なるほどな。学園に入ってからはその壁を越えたいと思って頑張っていたと」

「まあ……そうっすね。恥ずかしいですけど」

「恥ずかしいことはねえよ。頭ピンクにするほど気合入れてさ、全力で頑張ってたんだろ。それはすげーと思うよ。素直に」

「……でも、やっぱり駄目でした」


 向日葵は一瞬、天世の顔を見てから、気まずそうに顔を伏せる。


「真くんの異世界のお話は……楽しいっていうのとはちょっと違うんすけど……自分を偽らずにのめり込めるっていうか、純粋に……興味深くて。ここじゃないどこかの世界で、すごく過酷だけど珍しくて、友達とか、そんなこと考える暇もないくらい、精一杯に生きてて……眩しかった」


 ああ、そうか。こいつが天世の話を聞きたがってたのは、ある意味では現実逃避であり、同時に憧れでもあったんだな。毎日が命がけの世界で、余計なこと考えずに生きられたら……それはきっと向日葵にとっては羨ましいことだったんだろう。


「あ、あたし、真くんが……あたしに好意を持ってくれてること、わかってて……見ないふりをしてた。あたしが誰かと付き合ったりしたら、その人もまた遠くに行っちゃうんじゃないかって……雪ちゃんみたいに。それが怖くて」


 天世は何か言おうと口を開き……しかし、言葉が見つからないのか、ただ黙って顔をしかめることしかできないようだ。


「近づいちゃ駄目って思ってるのに、真くんのお話を聞きたいって思う自分もいて。どうしよう、どうしようって思っているうちに、もう一人の自分が頭の中で話しかけてくるようになったんです。部室をめちゃくちゃにすれば、もう悩まなくて済むぞって。居場所がなくなれば、苦しむ必要もないって。あたし、嫌だった。嫌だったのに……頭の中の自分に命令されると体が勝手に動いて……気持ち悪いくらい冷静に動く自分の体を、後ろから眺めてるみたいだった……」


 ……おいおいやべーな。解離性障害が出てんじゃねえかこれ。

 素人判断だが、普通に病院に行った方がいいのは間違いないだろう。よほど過去のトラウマが強烈だったのか、とにかく放っておいて良いもんじゃないのは確かだ。


 つーか、今こうなってる原因の一端は俺にもあるんだよな……

 向日葵が付き合ってるふりをして欲しいとか相談してきた時、たぶんあれは最後の訴えだったんだ。

 どうしようもなくて、どうすればいいか分からなくて、助けを求めてきたってのに……俺は適当にあしらって、追い返しちまった。そのせいでこいつは追い詰められちまったんだ。

 くそ、なんでこんな嫌な気持ちにならなきゃいけないんだよ。こうなったらもう、最後まで付き合ってやるしかねーじゃねーか。


「向日葵、お前今でもカウンセリング受けてんの?」

「えっ? ……いえ、高校生の時に行かなくなって、それっきり……」

「その時の先生の連絡先はまだ持ってんのか?」

「はい、一応……なんでそんなこと聞くんすか?」

「自分でもわかってんだろ、向日葵。今の精神状態が普通じゃないってことは。お前がまず最初にすべきことは、しかるべき治療を受けることだ。それ以外は二の次。いいか、カウンセリングの先生に今回のことを全部話すんだ。そして指示に従え。今はそれだけ考えておけばいい」

「でも……」

「ところで、お前が通ってた小学校ってどこ?」

「駒北第三っすけど……なんで?」

「伏線だよ。気にすんな」

「伏線……?」

「ともかく今日はもう帰るぞ。寮まで送ってく」

「はあ……」


 会話とも言えないような会話を無理やりまとめて、俺は席を立った。つられるように天世と向日葵も立ち上がり、俺たちは学園を後にした。


 寮は学園から徒歩で数分の距離にある。それなのに無言で暗闇の中を歩いている時間は、とてつもなく長く感じられた。ようやく寮が見えてきた時には、一晩中歩き通した後のような疲労感を覚えていた。


「じゃあな、今日はゆっくり寝ろ。明日の講義は休んでもいいから、ちゃんとカウンセリングの先生に連絡取るんだぞ。それと、今日のことは他の部員には黙っておくから……」

「いえ、友田先輩。皆にも話しておいて下さい」

「……いいのか?」

「皆が知っていてくれれば、もうあんなこと、しなくなるかもっすから……あと、これも預かっておいて下さい」


 寮の入り口の前で向日葵は、そう言って俺に部室の鍵を手渡してきた。

 鍵さえ持っていなければ、いつかまたもう一人の自分とやらにそそのかされても、行動に移さずに済むかもしれない……とか思っているんだろう。

 俺は少し考えてから、その鍵を預かることにした。


「……わかった。でもまあ、誰も気にしないと思うけどな。芽多なんかは多分知ってるだろうし」

「そういえば……昼間は見事に口裏合わせてたっすね」

「即興だけどな。あんなナチュラルに乗ってくれるとは思わなかったよ」

「あの会話を聞いて、あたし、カメラが仕掛けられる前にどうにかしなきゃって焦っちゃったみたいで……すっかり騙されたっすよ」


 最後に少しだけ、向日葵は笑った。ただの強がりだったのかもしれないが……それでも、前を向こうと頑張っていることは伝わってきた。


         ◆


 向日葵が寮の中に入るのを見届けてから、俺と天世は駅に向かって歩き始めた。

 終電なんてとっくになくなっているだろうけど、タクシーはつかまえられるはずだ。時間的には部室に泊まってもいいくらいだが……俺、手ぶらで来ちゃってるんだよな。どちらにせよ一旦帰らないといけない。


「……結局、オレのせいですよね」


 道すがら、ポツリと天世が呟いた。


「オレが勝手な気持ちを押し付けようとしたせいで、向日葵さんは追い詰められて、あんなことを……オレが身を引けば、全部解決するのかな。それなら……」

「バカ。お前は向日葵の話をちゃんと聞いてなかったのか?」

「えっ?」

「あいつはしきりに言ってただろ。『幸せになっちゃいけない』って。それはどういう時に出る言葉だよ。好きでもない奴に迫られて困ってる時に出る言葉か?」

「いや……でも」

「あいつはお前のこと、好きになりかけてた。いや、もう好きになってるのかもな。だからこそ、過去のトラウマとの板挟みになって、あんな状態になっちまったんだ」

「そんな、じゃあオレは一体どうすれば……」

「まあ、できることをやるしかねーだろ。明日ちょっと付き合えよ」

「明日ですか?」

「まずは図書館に行くぞ」


 医者に任せてハッピーエンド、なんてシナリオはありえないんだよ。

 こっちが何かアクションを起こさなければならないという予感を、俺はひしひしと感じていた。

 何ができるかはまだわからない。最悪、八方塞がりかもしれない。

 でもやるしかない。行動するしかないんだよ。こういう時はな。








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