桜の木の根本には
しかし、急にこちらに迫ってくる姿に俺の体は固く緊張する。
心臓の鼓動が外に聞こえるんじゃないかと思えるくらいに高鳴り、歯を食いしばり過ぎたせいで顎が痛む。頭が真っ白になりそうな中、無意識のうちに上着のポケットに手が伸びていた。
指先に触れる金属の感触で、かろうじて正気を保っている。それは護身用に買った、高出力のライトだった。ポイントを絞れば紙が焼けるくらいの威力があるし、拡散させれば強烈な目潰しになる。
とめどなく染み出す手のひらの汗を不快に思いながらも、俺の手はライトを離そうとしない。
と、ついに天世が植栽の中に足を踏み入れた。しかしそこは俺のいる場所より少し離れた場所で……しゃがみ込んだ天世と俺の目が合った。
「うわっ! ……って、えっ、友田先輩!? 何してるんですかこんな……」
「しっ、静かに。見つかるだろうが」
俺は天世に向けかけていたライトをこっそり仕舞うと、普段と変わらない調子で話しかけた。
その切り替えは我ながら神業と言っても差し支えなかっただろう。パニックに陥らなかったのは奇跡に近い。
だがそんなことはおくびにも出さず、泰然とした態度を装うことに全力を尽くした。恐らく天世の様子がいつも通りで、敵意がないことがわかったから、なんとか取り乱さずに済んだのだろう。
「……まさか先輩も、ですか」
「たぶん同じ理由だよ。じゃなきゃこんな時間、こんな場所に来ないだろ」
「犯人が、来るんですね」
「確証はないけどな……そういうお前はどうして来たんだよ」
「声が……いや、なんというか……」
「え、まさか神様の声ってやつ?」
「いや、声というか……何か嫌な予感がして……だから、来ました」
嫌な予感ってだけで夜の学園で張り込みしようとはならないだろう。かなりの確信があったに違いない。そんな俺の考えが伝わったのか、天世は小声で続けた。
「……昼間、オレたちかなり大っぴらにリフォーム的なことやってたじゃないですか。机や椅子を外に運び出して、部室のドアも窓も全開で。部室棟の近くを通る人なんかには結構注目されてましたし」
「あー、そういやそうだったな」
「その時、これ犯人が見てたら、面白くないだろうなって思ったんです。犯人としては、もっと
なるほど、一応考えてはいたのか。筋は通っているような気がするけど……それでも張り込みに来るほどかねえ。
「先輩も同じこと考えて、ここに来たんですよね?」
「あー……いや……うーん」
俺は思わず言葉を濁した。こいつに言っていいものかどうか。
しばらく黙っていると天世も諦めたのか、リュックサックから飲み物やガムなんかを取り出してこっちに渡してきた。俺は軽く頭を下げて、ありがたく受け取る。
お喋りに夢中になっていたら、隠れている意味がないということを天世もわかっているのだろう。
しかし俺も何か持ってくればよかったな。下手したら徹夜になるかもしれないってのに手ぶらとか、ちょっとナメ過ぎてたか。
それからしばらく経っても、変化はなかった。
俺は襲い来る眠気に必死に抗っていたが、限界が来そうだった。このままじゃ寝落ちするのは時間の問題だ。
仕方なく、眠気を紛らわすために、俺はさっき濁した言葉の続きを話すことにした。まあ小声なら喋ってても大丈夫だろう。
「部室の窓な」
「えっ?」
「窓の鍵、俺は間違いなく閉めたんだよ。部室がめちゃくちゃにされる前の日な。芽多に言われてすぐに閉めたから、あいつも見てたはずだ。たぶん修も」
「……どういうことですか?」
「つまり犯人はな、窓からじゃなくて、ドアの鍵を開けて入ったんだよ」
「鍵って……スペアがあったんですか?」
「いや、芽多が鍵屋で複製を作ったのは部員の分だけだ。俺も一緒に行ったから間違いない。つまり、鍵を持っているのは部員だけなんだよ」
「まさか……」
「そう、犯人は部員の中の誰かだ」
お前も候補に入ってたんだけどな、と言いたいところだが、知らんふりして黙っておく。本命は別だったしな。
それと、窓の鍵が開いていたのは偽装のためだろう。あるいは塗料のにおいを逃がすためか。そこまでする理性が犯人にあったと考えると、ちょっと気持ち悪いが。
「だ、誰があんなことを……?」
「まず、芽多は違う。いかにもやりそうに見えるが、やり口が雑すぎる。あいつならもっとスマートにやる」
「いかにもやりそうには見えませんが……」
「芽多が違うってことは修も違う。あの二人はセットで考えていい」
「お付き合いしてるからですか」
「まあ、そうだな。そんな中で怪しいのは夏先輩だった。あの人は何考えてるかわからんし、突拍子もないことをしでかしそうな雰囲気がある。なにより青春というフレーズにやけにこだわっているからな。今日のリフォーム活動はまさに青春って感じだった。それを狙って自作自演をしたという可能性はある」
「それじゃあ
「違う。普通に考えれば、あんなことになったら部活動は当面停止だ。部室も使えなくなる。今日は……いや、もう昨日か。昨日は芽多が特殊だったせいで結果的に楽しく終わったってだけだ。そんなリスクを先輩が犯すはずがない」
「……」
俺と天世は無言で顔を見合わせていた。
ここまで言えば後は消去法だ。
残りのメンバーは誰だ? そのうち今この場にいないのは?
考えるまでもない。
考えるまでもないことを、天世は必死に考えている。俺はその姿を見て少しだけ、
……と、その時、足音が聞こえた。
俺たちは吸い込まれるように、細い木の隙間からそちらを見る。
小柄だ。明らかに警備員ではない。闇に溶けるような黒い服に、天世が背負っていたのと同じような大きなリュックサック。パーカーのフードを被っていて、顔はよく見えない。
その人物はメタ部の部室に近づき、ドアノブに手をかけた。もう片方の手にはもちろん、鈍く輝く鍵が握られている。
あっけなく扉は開き、黒い影がその中へと消える。
俺と天世は一瞬目を見合わせてから、同時に飛び出した。
ほんのわずかな距離だ。十秒もかからない。俺たちは呼吸も忘れて部室へと飛び込んだ。
そこにいたのは、驚いたようにこちらを振り返る少女。フードの隙間からはピンク色の髪が見え隠れしている。顔の半分は口元を覆うマスクで隠れているが、その髪色だけでそれが誰なのか察するのは簡単だった。
「窓から逃げるのはおすすめしねーぞ。この狭い部室だ。お前が窓の鍵を開けて、窓枠に足をかける前に、俺か天世のどっちかが追いつく。まあ、逃げたところでどうにもなんねえけど。なあ、
向日葵は一瞬だけ体を強張らせたが、観念したように
「向日葵さん……まさか……どうして……?」
「ま、話はゆっくり座ってしようぜ」
俺は部室の扉を閉めると、後ろ手で鍵をかけた。
それから昼間きれいにしたばかりのパイプ椅子に腰掛ける。
電気はつけない。警備員に気づかれると面倒だからな。
俺が目線で促すと、天世と向日葵も大人しく座った。俺と天世が隣同士、向日葵はその向かいに一人だ。まるで面接か、尋問かと言った感じだが……ああ、尋問に近い何かだったな。そういえば。
窓の外から入ってくる電灯の人工的な明かりだけが唯一の光源だが、暗闇に慣れた目には十分だった。
「そのリュックの中はまたペンキか? それともバールのようなものか? まあ、どっちでもいい。俺が知りたいのは一つだけだ。どうしてこんなことをしたのか。それだけが気になってな。気になり過ぎて眠れなくて、こんな時間に夜遊びすることになっちまったよ」
俺はあえて回りくどく、気取ったようなセリフを口にした。
お互いの姿がハッキリと見えるよりも、薄暗い方が口を開きやすくなる。懺悔室が薄暗いのも、修学旅行で夜のお喋りが暴露大会になりがちなのも、同じような理屈だろう。だからまずは、非日常的な雰囲気を作ろうとしたのだ。
「オレのせいかな……向日葵さん。最近オレが無理に誘ったりしてたから……本当は嫌だったのかな」
黙り込む向日葵を前にして、たまらずといった様子で天世が言う。
あー……まあ、当たらずとも遠からず……って感じではあるか……
理由が知りたいなんて言っておいてなんだが、俺には向日葵が犯行に及んだ理由がなんとなくわかっていた。そしてその責任の一端が俺にあるということも。だからこそ、わざわざこんな七面倒臭いことをしているわけだが……
「違う……嫌じゃないよ……でも、あたしは幸せになっちゃ駄目なの」
いつもの元気はどこに行ったのかってくらいにか細い声ではあったが、ようやく向日葵が口を開いた。
「幸せになっちゃ駄目ってのは、どういうことだよ」
「……あたしは、人殺しだから」
そうして、暗闇に沈む石棺のような部室の中で、花の名前を持つ少女の声が、その過去を
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