黒い嵐

 部室の中は、まるで嵐が通り過ぎた後みたいな惨状だった。

 もともと備品は少なかったものの、ホワイトボードは倒れ、長机は転がり、パイプ椅子はあちこちに散乱している。それに加えて、所構わずめちゃくちゃに飛び散った黒い塗料が異様な光景を作り出していた。


 俺と夏先輩が入り口から中を覗いていると、天世あまよ向日葵ひまわりの一年生コンビがやってきた。二人ともいきなりの状況に理解が追いつかない様子で、特に向日葵はショックのあまり声も出ないようだった。

 それからすぐに芽多と修が合流し、全員揃ったところで俺たちは恐る恐る部室の中へと足を踏み入れることになった。


「なんだこれ……ペンキ……?」

「恐らく水性塗料ね。においがほとんどしないわ」

「誰がこんなことを……」


 中に入ると、一気に日常から切り離されたように感じた。

 異常、狂気、悪意、そういったものを強制的に直視させられる。

 誰が、なんのためにこんなことをしたのか、目的が全くわからない。

 ものを盗ったり壊したりする訳でもなく、しかしあちこちに散乱させ、その上に黒い塗料をぶちまけている。まるで癇癪を起こした子供が際限なく暴れまわった後のようだ。


夏秋かしゅう先輩。第一発見者のあなたに詳しく状況を聞きたいのだけれど」


 あちこち見回したり、ホワイトボードを軽く持ち上げたりしていた芽多は、倒れていたパイプ椅子を起こして腰掛けると、先輩にそう語りかけた。

 どうやら黒い塗料は乾ききっているらしいが、それでもそんな椅子に座るなんて、あまり真似したいものではない。


「詳しい状況と言っても……私が来た時はもうこんなだったから……」

「鍵は?」

「……開いていた」

「ふむ、となると」

「窓から入ったんじゃねえの。ほら、開いてるし」


 俺は芽多が何か言う前に割り込んだ。

 この部室に入った時から窓は開いている。窓の高さも大きさも、人が入るのに苦労するというほどのものではない。窓からの侵入は十分に考えられるだろう。


「友田……昨日の帰りに、あなたに施錠をお願いしたわよね」

「あーそれな。忘れてた」

「なにやってるのよ……」


 芽多は呆れた顔でぼやくが、それ以上追求してくる気はなさそうだった。


「ところで向日葵、昼休みは部室に来なかったのか?」


 芽多のジト目を振り払うように、俺は向日葵へと水を向ける。昼休みを部室で過ごしていることが多いこいつなら、何か知ってるかもしれない。


「えっと……今日は真くんと一緒だったので……部室には行ってないっす」

「そうですね。向日葵さんはオレと学食に行っていました」


 一年生コンビが口を揃えて証言する。まあ、昼に何か見てたら先に言ってるわな。


「となると、犯人がいつこれをやったのか、わかんねえな」

「水性塗料の乾燥時間は大体3~5時間くらいよ。今日は暖かいから、もっと早いかもしれないけれど。とは言えこの乾き具合だと、昼ということはないでしょうね。そもそも目立ち過ぎるわ。恐らく昨日の夜から今日の未明にかけて。人目がなくなった頃でしょう」


 なんで水性塗料の乾燥時間なんて知ってんだよと思ったが、芽多はここに来る前は美術系を専攻してたっぽいから、その関係なのかもな。

 ともあれ犯行が夜となると、手がかりはないに等しい。この部室棟は急ピッチで建てられたから、本館と違って監視カメラや機械的なセキュリティシステムが一切ついていないのだ。


「でもまあ、別にいいでしょう。何か盗まれたわけでも、壊されたわけでもないし。壁は上から塗り直して、せっかくだから絵でも描きましょうか。椅子や机はリムーバーが必要ね。どうせ安いアクリルでしょうから、簡単に落ちるわ」


 芽多のセリフに、一年生コンビが驚いた顔をした。


「えっ、これ、先生に報告とかしないんすか?」

「報告したってどうしようもないでしょう。特に被害もないんだし」

「ホワイトボードなんかは、使い物にならなさそうですが」

「いいえ、塗料がついてるのは片面だけよ。多分簡単に落ちると思うけど、綺麗にならなかったら無事な面だけ使えばいいわ。……そう、なのよ。犯人は、まず備品を積み上げてから、その上に塗料をぶちまけたということ。それにほら、ごらんなさい。床に明確な靴跡が残っていないでしょう。靴の上から布かポリ袋でも巻いたのか……一見狂気的なようでいて、かなり冷静に行われた犯行だということがわかるわね」


 なんか推理ものめいてきたな。芽多のやつ、ノリノリじゃねーか。


「……でも、また同じようなことがあるんじゃないっすか? なんでこんなことをされたのか、理由もわからないし……」

「そうねえ」

「カメラでも仕掛けておけばいいんじゃねーの。リアルタイムでクラウドにデータを送れるやつ。芽多なら用意できるだろ?」


 俺がそう言うと、芽多は一瞬探るような視線をこちらに向けてから頷いた。


「……ええ、明日にでも用意するわ」

「話が早くて助かる。また犯人が来たら、その時はおしまいだな」


 その後、俺たちは揃って隣町のホームセンターに行き、塗料や洗剤なんかを色々買い込んだ。なぜか俺が全ての荷物を持つことになったが、芽多いわく「窓の鍵を締め忘れた罰」だそうだ。そう言われると何も言い返せない。

 ちなみに代金は、修がうまいこと部費として計上すると言っていた。着実に芽多に感化されているようでなによりだ。なによりか?


 そして日が傾くまで、部室のリフォーム的な作業は続いた。

 部室の壁には冬を除く四季の絵が芽多の手によって描かれた。下書きもなしに美麗な絵を描いていく様子は、プロのライブペインティングを見ているようだった。

 最後に床にフローリングマットのようなものを敷いて完成だ。床を塗り直すのは面倒だからな。椅子や机は芽多の言う通り、洗剤でかなり綺麗になった。これで明日からも問題なく、部室は使えるだろう。


         ◆


「どうしてあんなこと、したんだろう……」


 帰りの電車で、隣に座る夏先輩が呟いた。

 先輩とは最近ちょくちょく帰りが一緒になる。というか、部活が終わってすぐに帰ろうとすると必然的にそうなる。

 今までは気まずいので俺が適当に時間をずらしていたのだが、それも面倒くさくなってしまった。

 慣れてみれば、口数の少ない夏先輩と一緒に帰るのも悪くない。無理に喋ろうと気を使う必要がないのは楽でいい。

 そんな物静かな夏先輩も、今日の事件にはそれなりに思うことがあったのか、珍しく自分から話しかけてきた。

 いや、話しかけてきてるのかこれ? ただの独り言か?

 どっちかわからないが、結果的に無視することになったら悪いので一応返事をしておくことにした。


「たまたまじゃないですか。窓が開いてたから」

「そうかな……それだけで、あそこまでするかな?」

「許せないですか? 犯人のこと」


 夏先輩は無表情で口数も少ないが、誰よりも部活を楽しみにしている。それは、いつも部室に一番乗りだったりする所によく表れている。だから今回の件は、先輩的には許せないことなのではないかと思ったんだが……


「最初はちょっと、悲しかったけど……皆で部室をきれいにするのは楽しかったから、良かったような、良くないような……複雑な気持ち。ただ……あれをやった人がどうしてそんなことをしたのか、理由だけは知りたいの。私に解決できることなら、力になってあげたいから」

「ふーん……」


 なんともまあ、お優しいことだ。夏先輩にとっては大切な場所であろう部室をめちゃくちゃにされたってのに、犯人を気遣うとは。

 まあ、結果だけ見れば大したことはなかったから、そんなぬるいことが言えるんだろうけど。

 その後は俺たちの間には特に会話もなく、俺はなんとも言えないモヤモヤとした気持ちを抱えたまま帰途についた。


         ◆


 帰宅後はインスタント食品を適当に食ったり、シャワーを浴びたりしつつダラダラと時間を潰す。そして21時を過ぎたあたりで厚手の上着を羽織って、俺は家を出た。

 日中はだいぶ暖かくなってきたものの、夜はまだまだ肌寒い。まばらに人を吐き出し続けている改札を抜けて、電車に乗る。

 これから帰宅するのであろう無表情の大人たちが、各々自分の脳内に籠もったまま、自分の意思とは無関係に高速で水平方向に運ばれている。それがなんだかおかしくて、俺はつり革に掴まりながら窓に反射する光景をまじまじと見つめていた。


 夜の学園は静かだった。人の姿はゼロではないが、ほとんどいない。部室棟の方へ足を向ければ、その傾向はより一層顕著になる。

 俺は昼の間に目星をつけておいた植え込みの中に足を踏み入れた。

 腰を下ろせばすっかり体は隠れるが、細い木の隙間からは、まばらな照明によって照らされる部室棟の様子がよく見える。

 ちらりとスマホを見れば時刻はまだ22時前だ。長い夜になるかもしれない。


 それからしばらくして、何者かの影が部室棟に近づいてくるのが見えた。

 軽い睡魔を振り払って目を凝らす。

 男だ。癖のある黒髪、細身のシルエット。大きなリュックサックを背負い、キョロキョロと辺りを見回している。

 それは我がメタ部一年の、天世真だった。








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