本当の世界
「世界って、なんだと思う?」
第二回目の部活動。
芽多の背後にはどこから調達したのか、でかい移動式のホワイトボードが置かれている。
唐突に意味の分からんことを言い出した芽多とばっちり目が合ってしまった俺は、仕方なく口を開いた。
「……そのホワイトボード、どうしたんだ?」
「部費で買ったのよ。話の腰を折らないで質問に答えなさい、友田」
話をはぐらかそうとしたが、ダメだったか。
というか、一応こっちの質問には答えてくれるんだよな、こいつ。それなら俺も答えないといけないような気がしてしまう。
……しかしなあ、世界とはなにかなんて、真っ昼間からするには胃もたれしそうな話題だ。
もうちょっとこう、世間話的なものから入ったり、アルコール的なものが入ってたりした方がいいと思うんだが……まあそんなことを考えても仕方ないので、俺は適当に答えることにした。
「あー……地球とか、宇宙とか、そういう感じの話か?」
「それじゃ、
華麗にスルーされた。俺の答えはお気に召さなかったらしい。まあ俺としてはその方が楽でいいんだけど、若干ムカつくな。
「世界、ですか。……目に見えるものや、感じることの全て、かな……?」
指名された天世は律儀に考えて答えている。真面目なやつだ。
「そうね。私たちにとっては、五感で感じる全てが世界と言っていいでしょう。でも、それって本当の世界なのかしら? というのが今回の議題よ」
芽多がホワイトボードにマジックで『世界とは』と書く。綺麗な字だ。
「では、五感の中で最も割合が大きいと言われている視覚について考えてみましょうか。向日葵さん。見える、というのはどういうことかしら。目はどうやってものを見ているか説明できる?」
「えっ、あたしっすか。えーと……目がレンズみたいな感じになってて、その辺の景色とかをこう……映してるみたいな……」
講義中にいきなり当てられたみたいに、立ち上がって答える向日葵。
「おおむねその通りね。目の水晶体が光を集めて網膜に光の像を映す。その像が電気信号に変換されて脳に届けられると、脳が『見た』と解釈する、というわけ」
芽多はホワイトボードに目と脳のイラストを描き、矢印で結ぶ。矢印には『電気信号』と書かれている。
デフォルメされたイラストだけど上手いな。描き慣れてる感がある。
「音が聞こえる仕組みも似たようなものね。空気の振動を耳の奥で電気信号に変換して脳に送り、脳が音と認識する。味覚、触覚、嗅覚も、最終的には脳に送られる電気信号なのよ」
目のイラストの下に、耳、舌、手、鼻のイラストが追加される。
なんか講義を受けてるみたいで眠くなってきたな。
「つまり、世界とは。今あなたたちが見て、聞いて、触れて、味わって、読んで、感じている、この世界というのはね。脳が電気信号を解析して、自分なりに再構築したものなの。頭蓋骨の中に閉じこもっている脳は、目や耳といった感覚器官越しに世界を想像するしかない。実際の世界を直接認識することは絶対にできないのよ。私たちが当たり前と思っているこの世界は全て、脳が勝手に想像したものなの」
脳のイラストから漫画の吹き出しみたいなものが出て、そこに雲や太陽や木などが描かれた。これが俺たちの感じている世界ということなんだろう。
そして目や耳などのイラストの外側……つまり脳と対極の位置に、モヤモヤとした雲のようなものが描かれる。芽多はそこに『本当の世界』と書いた。
「私たちは脳の外側のことを直接知ることができないまま、『きっとこうなんだろうな』という想像の世界の中で生きている。やがて肉体は崩壊して、組み上げられた自我も世界も最初から無かったみたいに霧散するの。生まれてから死ぬまで、私たちは究極的に孤独なのよ」
なんだかわからんが途方もない話になってきたな。
見えてて触れるんなら実際そこにあるんじゃねーの、というのが普通の感覚だと思うけど。
「……質問、いいですか。『本当の世界』から目や耳が情報を受け取っているなら、それを元に脳が作り出した世界は『本当の世界』に極めて近いもの……ってことになりませんか?」
まるで俺の考えを汲んだように、天世が自発的に声を上げる。
どうやらこのテーマは天世にとって興味深いものだったらしい。
「それはどうかしら。例えば牛や馬の目はほとんど色を識別できないらしいし、虫の目は人間が見れない紫外線を見ることができると言われているわ。目が完全に退化している種類のコウモリなんかは、超音波で世界を認識している。では、どの動物の見ている世界が本当に正しい世界なの? という話よ。人間だって色の見え方が違う人や、生まれつき目が見えない人だっているわ。そういう人たちが脳で再構築している『世界』は間違っているのかしら? そもそも私たちが見ている世界が、誰も彼も同じに見えているという保証もないのよ?」
芽多も天世の指摘に対してきっちりと反論していく。自分以外の他者が見ている世界なんてわかりようがないんだから、ずるい答えだとも言える。
天世は「なるほど……」と小さく呟いているが、芽多の言葉は続いていく。
「感覚器官の違いだけじゃない。例えばアルツハイマーの初期症状に、『物盗られ妄想』というものがあるわ。実際は盗られていないのに、財布などを盗られたと信じ込んでしまうの。実際はどうであれ、当事者にとっては盗られたという世界が真実になるのよ。他には、大昔にあったロボトミー手術……前頭葉の一部を切除する手術で、別人のように性格が変わってしまったなんて例もあるわ。つまり、解釈する脳側の違いによっても世界は容易く変質してしまうのよ」
似たような話を俺も聞いたことがある。
穏やかな性格だった人が急に暴力的になってどうしたのかと思っていたら、脳に大きな腫瘍ができていた、みたいな話だ。
人間なんてものは結局脳なんだよなあ、という、諦めにも似た変な気持ちを抱いたことを覚えている。
「それにね、そもそもの話をしてしまうと……」
そう言って芽多はホワイトボードに書かれた『本当の世界』という文字の上に、赤いマーカーで大きく『?』のマークを書いた。
「そもそも『本当の世界』なんて存在するの? という話になってくるわ。要は電気信号さえ脳に送ってやれば、そこに世界があろうがなかろうが、脳は勝手にそれがあるものとして認識するんだから。昔の映画みたいに、本当の私たちはカプセルの中で眠っていて、普通に生活しているような夢を見せられているだけ……なんてこともあるかもしれない。……というか、これを突き詰めて考えていくと、そもそも脳という器官すらあるかどうかも怪しくなってくるわね。最初から肉体なんてなくて、あるのはただ夢を見ている意識だけで、他には何も存在しないんじゃないの? ってね」
ひとしきり喋っていた芽多が一息つくと、部室内は奇妙な沈黙に包まれた。
今の話をまともに考えようとすると、なんだかこの世界が急にあやふやなものに見えてくる。そういった不可思議な感覚を、皆が感じているのかもしれない。
「……芽多さんは、なぜこのお話を今日のテーマにしたの?」
不意に、それまで一言も発していなかった夏先輩が口を開いた。
小さな声だったが、それは沈黙の中に鈴のように響く。
「特に理由はないけれど……そうね、こういう哲学的なお話って、いい感じの現実逃避になるでしょう? それでいて面白いんだもの。皆にも興味を持ってもらえたらと思ってね」
「うん……確かに面白かった」
夏先輩は納得したみたいだけど……芽多のやつ、微妙に答えをはぐらかしたな。
ついにこの世界が恋愛ゲームだとかいう持論を持ち出すタイミングかと思って身構えたが、もしかしたら芽多は部員にそれを言うつもりはないのかもしれない。それならそれでいいんだが……毎回、放課後に哲学の講義を受ける感じになるのはちょっと、いやつまらなくはないんだが、さすがに疲れる。
そんなことを考えているうちに、部活動の終了時間になった。
無駄かもしれないが一応釘を刺しておくかと思い、新入部員たちが解散した後に俺は芽多に声をかけた。
「おい芽多よ、次回もこんな感じでやるつもりか?」
「なによ友田。文句でもあるの?」
「そういう訳じゃねーけどよ……毎回座学ってのもキツいだろ。向日葵とか目ぇぐるぐるしてたぜ?」
実際に向日葵がどんな様子だったのかは知らないが、ここはダシに使わせてもらうとしよう。
「……そうね。友田の意見も検討しましょう」
あっさり芽多はそう言った。
こういうところあるんだよな、こいつ……普段の傲岸不遜な態度は、本当にただのキャラ作りなのかもしれない。
◆
芽多と修はいつも通り一緒に帰るらしいので、俺は一人で医務室に向かう。
医務室の扉を開けると、普段とは違う空気を感じた。
健康相談医の女と目が合う。彼女は無言で部屋の隅に目を向ける。つられてそちらを見ると、ベッドのカーテンが閉まっていた。珍しく先客がいるらしい。
俺は仕方なく、無言で扉を閉めた。
ここ、ちゃんと他の学園生も利用してたんだな。
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