世界五分前仮説
掃除が終わった後、俺たちは部室の中でテーブルを囲んで座っていた。
元々汚れてもいなかった場所を掃除したのだ。それほど時間がかかるはずもない。日はまだ高く、解散するには早すぎる。……俺は早く帰りたかったんだが。
というわけで必然的に、第一回メタ部の部活動が始まることになったのだった。
「それでは、この部はどういう活動をするのかという説明も兼ねて、今日は顔合わせの時にも少し触れた『世界五分前仮説』について話し合いましょう」
堂々とした態度で芽多が話し始める。
「そもそも、『世界五分前仮説』とはどういうものか知っている人はいるかしら?」
芽多はぐるっと皆の顔を見回した。
俺はなるべくヤツの視界に入らないように体を反らす。
「オレは聞いたことないですね……」
芽多と目が合ったらしい
「あたしも知らないっす!」
続いて、無駄に元気な声で
「少しなら……」
最後に
「では
「……その名の通り、この世界は五分前にできたっていう仮説。過去の記憶とか全部持った状態で突然創造されたとしたら、私たちはそれに気づけない」
「えっ、そうなんすか!?」
夏先輩の言葉に、向日葵が被せるようにして驚きの声を上げた。
んなわけねーだろ……と突っ込みたいところだが、その突っ込みができないところがこの仮説のキモだ。なにせ、過去の痕跡や記憶、それら全てを備えた状態で作られたとしたら、俺たちにそれを認識する術はないのだから。
「でもでも、さっき掃除してからもう五分以上たってるっすよ! それに、お昼ごはんの後に食べた重量級の揚げ饅頭も、まだお腹の中に確かな存在感を感じるっす!」
向日葵が意気込んで反論する。感覚的に五分前に世界が作られたなんて信じられる訳がないのだから、その反論はもっともだ。
あとダイエットとか言ってた口で重量級の揚げ饅頭なんかを食うんじゃないよ。
「その感覚や記憶、お腹の内容物まで全てを備えた状態で私たちが創造されたとしたらどうかしら? というのがこの仮説なのよ」
「えー……そんなことできる人なんていないと思うっすけど……」
「でも、いるかもしれない。この世界は全て作り物かもしれない。それを否定することは決してできないの」
芽多の言葉に、俺は少しドキリとした。
……いや、こいつもしかして、この世界=恋愛ゲーム説の外堀を埋めにいってるのか……? 確かに否定はできないが……いや、俺は絶対に否定するけど……
「といっても、これを最初に言った人は別に、本気で世界が五分前に作られたなんて信じていた訳ではないわ。モノの例えとして述べた言葉のインパクトが強すぎて、ひとり歩きしてしまったという感じね」
へー、そんな話だったのか。俺も詳しく調べたわけじゃないからよく知らんけど。
「要はこれ、記憶に関する思考実験なのよ。過去というものは、もうどこにも存在しない。それは各々の頭の中だけにある。向日葵さんが本当に揚げ饅頭を食べたかどうかも、過去の記憶は証明することができない。たとえ今、向日葵さんのお腹をかっさばいて内容物が確かに揚げ饅頭であると確認したとしても、それを向日葵さんが食べたことの証明にはならない。なぜなら、そのようにして五分前に作られただけかもしれないのだから。結果だけが今ここにあるの。過去の知識というものは、たとえ過去そのものが存在しなかったとしても、何ら問題なく今ここにある。つまりは、過去そのものが直接現在に干渉することはできないということよ」
なんだかややこしい話になってきたが、言いたいことはなんとなくわかった。
確かに俺たちはもう二度と過去を経験することはできない。
過去を思い出すという行為も、今現在やっていること。過去とは関係がない。
たとえ過去なんて存在しなくても、今持っている記憶には一切関係がない……
まあ、どれも思考実験だ。実際にどうかはわからないし、証明のしようもない。
問題は、芽多がどうしてこのテーマを持ち出してきたかということだ。
俺が思うに、芽多は世界=恋愛ゲーム理論を後押しするために、まず部員たちにこの世界に対する疑問を持たせようとしているんじゃないか?
そもそも思考実験というのはそういうものだろうけど、それを恣意的に利用しようとしているのだとしたら結構ヤバい。
常識を疑うこと。感覚的に当たり前だと思っていたことに対して疑問を持つこと。それ自体は真っ当なことだ。何も問題はない。問題がないからこそ、俺は芽多の言葉をどんどん否定できなくなっていく。
「うーん……ちょっとよくわかんないっす」
「でも面白いな。そういう考え方があるとは」
「……芽多さんは物知りだね」
新入部員たちの反応は三者三様だが、否定的なものではなかった。
新しい切り口で物事を考えるのは楽しいからな……しかし、俺としては芽多の思い通りになるのはあまり面白くない。こいつは哲学とか思考実験とかのレベルを超えて、マジで自分の説を信じているっぽいからだ。
自分で信じているだけならいいが、それを周囲の人間にまで拡げようとするとなると、話は違ってくる。
だがこいつは、ストレートにそれをしようとしない。
だからこそ、たちが悪い。
「……私は、この『世界五分前仮説』が好きなの。常識だと思っていたことが、実はものすごくあやふやなものだったとしたら? そうやって一つ一つの『当たり前』に疑問を持って考えていく。この部はそういう活動をしていく部だと思ってもらえば間違いないわ。まあ実は、言ってしまえば『思考実験部』なのよ、ここ。とっつきにくいだろうから、名前を変えただけなの」
ふっと表情を緩めて本音を語るように見える芽多に、向日葵は顔を輝かせた。
「確かに、『思考実験部』って名前だったら絶対入らなかったっす! でも、今みたいにわかりやすく教えてもらったら、すごく面白い感じがしました! ……正直、あんまりちゃんと分かってないっすけど!」
「最初は難しいもの。今は面白いと感じてもらえただけで十分よ」
なんだかいい感じの空気が部室に流れていた。夏先輩も天世も、二人のやり取りを微笑ましく見守っている。
修はボケーっと何考えてんだかよくわからない顔をしているが、もしかしたら無駄に長い前髪を利用して寝ているのかもしれない。
……やばいな。
正直なところ、俺は芽多をナメていた。もっと直接的に、「この世界は恋愛ゲームなのよ!」「な、なんだってー!?」みたいな感じになるのかと思っていたのだ。
だが実際は、わかりやすい思考実験から入って自分の説を披露しても違和感がないような下地を作り上げようとしている。
ああ、面倒くさい。本当はどうだっていいんだ。こいつも、部員たちも。誰がどんな思想に染まろうが、知ったことじゃない。それで本当に世界が変わるわけじゃないんだから。
でも……
ああくそ、でも、俺は今ここにいる。
ここにいる以上、俺は俺の平穏を守る必要がある。
俺だけは、芽多の言葉を否定し続けなきゃならないんだ。
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