放蕩息子の帰還

母親が入院している病院にたどり着くのは簡単だった。15で家を捨てたとはいえ、同じ観音通りに暮らしているのだ、これまで知らなかった方が不思議というものだろう。

 観音通りから電車で5駅、その後バスで25分。観音通りからほとんど出ないで生活している鏡太郎からしてみると、それは小旅行と言ってもいい距離だった。

 母の病室は、豆腐を横向きに置いたみたいにそっけない形をした病院の、右の一番上にあった。

 母に会うのは、12年ぶりだった。第一声になにを言えばいいのか分からないまま、鏡太郎はその四人部屋に足を踏み入れた。

 母のベッドにはカーテンが下ろされておらず、鏡太郎がぎこちなくその前に立つと、母は手にしていた文庫本から怪訝そうに視線を上げた。

 そして、数秒の沈黙。

 「鏡太郎……?」

 母の声は掠れていた。掠れて、語尾も微かに揺れている。

 うん、と、鏡太郎は辛うじて頷いた。

 母も鏡太郎も、お互い言葉を失ったままの数分間。気が付いたら鏡太郎は、母の胸にしがみつくようにして泣いていた。声を立てて、子どもみたいに。

 母は驚いたように一瞬硬直した後、鏡太郎の髪を撫でてくれた。おそるおそる、静かに、鏡太郎が逃げ出す可能性を考えているみたいに。

 「鏡太郎。」

 ぽつんと、母はまた彼の名前だけを呼んだ。

 鏡太郎はなにも答えなかった。涙に喉を塞がれていた。

 自分がなんで泣いているのかが分からなかった。母に会えたのが泣くほどうれしいわけではなかったし、母ががりがりに痩せこけたのが泣くほど悲しいわけでもない。泣くほどの理由なんてどこにもない。

 それでも、涙が止まらなかった。

 ただ、随分と長く留守にしてしまったのだ、と、胸の深いところで理解したのは確かだった。だって、母はこんなに痩せて、皺だらけになってしまった。

 「今まで、どこにいたの。」

 母が、囁くように問う。

 鏡太郎は泣きじゃくったまま答えなかった。

 泣きじゃくっていなかったとしたって、答えようはない。だって、どこというわけでもなく、色々な夜に色々な女のところに、鏡太郎はいたのだ。

 どこにいたの。

 その問いに答えられないこと。

 それがこれまで12年間にわたる親不孝の集大成だという気がした。

 「どこにいたのよ……。」

 母の震える語尾は、嫌に明るい病室の白い壁に、吸いこまれるように消えていった。

 なにも答えられない鏡太郎は、痩せて骨ばかりになってしまった母の胸にしがみついていた。

 12年前より痩せた、とは言い切れない身体。昔からこの人は痩せていたし、鏡太郎はかつて、この人に抱かれたことなんて全くと言っていいほどなかった。


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