3
「鏡ちゃんの好きな人って、ケイ子さん?」
問われ、鏡太郎は思わず微笑んだ。皮肉でも何でもない。彼女の正しさに乾杯でもしたい気分だった。ケイ子には、15歳から20歳まで5年間も世話になった。そのケイ子が『好きな人』。そこまで正しくなれればいいのに、と本気で思った。
「そうだよ。」
だから鏡太郎は嘘を吐いた。
だから、というのは違うかもしれない。ルリ子の正しさにあやかりたいのも本当だし、『正しい』『好きな人』へのあこがれも本当だ。
でも、本当に鏡太郎に嘘をつかせたのはそのどちらでもなくて、茜への情だった。今ではもう、愛情だか恋情だか慕情だか、なにがなんだか分からなくなってしまった感情。
「嘘ばっかり。」
端的に言って、ルリ子は泣いた。右の目から一滴、左の目から一滴。
ルリ子が泣くなんて、鏡太郎からしたら天地がひっくり返るくらいの衝撃だった、あのルリ子が、泣いている。それも、俺なんかのせいで。
その時確かに鏡太郎は、愛おしいと思ったのだ。涙を流すこの女が、愛おしいと。
慎重に、ルリ子の首の下に右手を回し、もう片方の手で腰を引き寄せる。
「……ヒモ、やめるから一緒に暮らそう。」
ルリ子は鏡太郎の手を振り払いはしなかった。それどころか唇を寄せてそっとキスをして、それから笑った。ふわりと、花びら1枚ほどの重さの微笑。
「できない約束はしない方がいいわよ。」
ごめんね、と、ルリ子が囁く。
「じゃあ、俺はどうしたらいい?」
「さあ。私に訊かないでよ。」
「俺、ルリ子しかいないんだよ。こういうの、訊けるの。」
嘘ではなかった。心の底から本気だった。
うん、そうだよね、と、ルリ子も頷いた。
そして両手で鏡太郎の頭を抱え込み、囁いた。
「あなたのお母さま、まだご健在よ。病院に入院しているけど。」
帰りなさい、とルリ子が囁く。
「その後どうするにしても、一度は帰りなさい。」
無理だ、と、鏡太郎は呻いた。
ケイ子と家を出たとき、鏡太郎は母を捨てたのだ、確かに。それが今更どの面さげて帰って行けるというのか。
「帰りなさい。」
もう一度、今度はもっと強く囁いて、ルリ子は鏡太郎の肩を撫でてくれた。それは遠い昔、茜が昼寝をする鏡太郎にしてくれたみたいに。
「そこからなにしたっていいわ。またヒモに戻ったって良いの。でも、1度だけ帰りなさい。」
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