ケイ子は翌朝きちんと帰って来た。

 「おかえり。」

 と鏡太郎は彼女を迎えた。いつもと同じ態度だ。

 ケイ子はなにも答えなかった。そして、テレビの前に座って興味もないニュース番組を垂れ流していた鏡太郎の背中を叩いた。拳で、何度も何度も。

 鏡太郎は振り向いて、彼女の拳を手の中に握り込んだ。

 一拍の沈黙の後、ケイ子は両腕で鏡太郎にしがみついた。

 「なんで、あんたなんか連れてきちゃったんだろう。」

 低い声は、濡れていた。なんで、なんで、と呟く唇も、涙の雫で濡れていた。

 鏡太郎は黙ってその雫を舐めた。唇から、顎を伝って頬へ、目の下へ。

 「感謝してるよ。ケイ子さんには。」

 嘘を重ねた唇で、ケイ子の下唇を吸う。

 「愛してるって、一回くらい言ってみなさいよ。」

 「愛してるよ。」

 言うのは簡単だった。キスより簡単。だからケイ子だって、その言葉が本気でほしいわけじゃないだろう。その証拠に、彼女は鏡太郎の『愛してる』を聞いて、また拳を振り上げた。

 「ねえ、感謝ならしてるよ。」

 ケイ子の耳元で、鏡太郎は今度は本当の言葉を紡ぐ。ケイ子がそれを求めていないことくらい知っているくせに。

 「俺を連れ出してくれたこと、感謝してるんだよ。」

 「連れだしたって、どこからよ。」

 「あの家。」

 「嘘ばかりつかないで。」

 「ついてないよ。」

 「ついてるわ。」

 「どんな嘘を?」

 「茜じゃない。私があんたを連れ出したのは、茜からじゃない。」

 一瞬、鏡太郎はたじろいで、ケイ子の身体を抱く腕を弱めた。

 ケイ子はそれに気が付くと、笑った。ほら、言った通りじゃない、と、子どもが自説の正しさを証明したときみたいな笑みは、いっそ無邪気と呼べたかもしれない。

 「茜さん?」

 たじろいだ仕草のまま問い返す鏡太郎は、ケイ子の前に初めて完全に無防備な顔をさらしていた。こんなところで、あの人の名前が出てくると思わなかったのだ。

 「そうでしょう。」

 真実を知っているという完全な強さを持つケイ子は、それを堂々と振りかざした。

 真実を握られているという完全な弱さを持つ鏡太郎は、振りかざされた真実から逃げようと、ケイ子の身体を押し倒した。

 「やめてよ。今はしたくない。」

 ケイ子がもがき、鏡太郎の下から抜け出そうとするが、彼はそれを許さなかった。

 話しをうやむやにしたかったのだ。もう、茜の名前など聞きたくはなかった。誰の口からでも。

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