翌朝、ケイ子は帰ってこなかった。昼になっても、夜になっても、帰ってこなかった。

 鏡太郎はしばらく彼女を待った。しばらくというのは、精々夜まで。

 そうして鏡太郎は、ふらりと外に出た。鍵はポストに入れておく。ケイ子が買ってくれたものを全部置いて行こうとすると、荷物はほぼ完全になくなった。

 家から持ってきたものといえば、ジッポくらい。それだけポケットにねじ込み、後はなにも持たず歩きだす。

 周囲はどっぷりと日が暮れて、街灯の周りには、光に誘われた蝶々のような女たちが銘々趣向を凝らしたファッションで立ち並んでいる。青魚の鱗みたいに艶々と光を反射する瞼が、ぴたりと鏡太郎の挙動に寄せられた。

 「鏡太郎。」

 「珍しいのねこんな時間に。」

 「ケイ子さんはどうしたの?」

 「逃げられたんだわ。」

 「可哀想に。」

 「うちに来る」

 「本気?」

 「まさか。」

 「じゃあ、うちに。」

 「本気?」

 「まさか。」

 さざめくように女たちの声が重なり合って鏡太郎の鼓膜に流れ込む。

 澄んだ小川の中にいるみたいだ。鏡太郎は、この小川が好きだった。時々、自分は女が好きなのではなく、さざめき合っている女の声という概念が好きなのかもしれないと思うくらいに。

 女たちの前で立ち止まることはせず、歩いて観音通りを抜けながら、誰へともなく鏡太郎も口を切る。

 「あてはあるんだ。飲み屋で働いてる、弓子って女。」

 「弓子?」

 「だれ?」

 「あの地味な子?」

 「地味な子って?」

 「通りのすぐ外にある飲み屋で働いてる子よ。」

 「ああ、あの。」

 「確かに地味な子ね。」

 「鏡太郎の趣味じゃないわ。」

 鏡太郎の趣味、そんなふうに言われると、鏡太郎は自然と首を傾げてしまう。女なんて誰も趣味じゃないような気もすれば、女なら誰でも趣味なような気もするからだ。

 確かにケイ子や、ケイ子と仲たがいをしているときに転がり込んでいた女たちと、弓子は違う。さざめく女たちの集合体が言うように、地味な女なのだ。それにあくまでも飲み屋でアルバイトをしているだけであって、客を取っているわけでもない。

 鏡太郎は時々その店に飲みに行っては弓子を口説いていたが、そのときの反応もいかにも初心だった。適当に男をあしらう術を知らぬ女のぎこちなさがあった。

 そこに付け込もうとしているのだ、鏡太郎は。あの女なら、家に押しかけて一度でも抱いてしまえば自分の宿主になる、と踏んで。


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