3
翌朝、ケイ子は帰ってこなかった。昼になっても、夜になっても、帰ってこなかった。
鏡太郎はしばらく彼女を待った。しばらくというのは、精々夜まで。
そうして鏡太郎は、ふらりと外に出た。鍵はポストに入れておく。ケイ子が買ってくれたものを全部置いて行こうとすると、荷物はほぼ完全になくなった。
家から持ってきたものといえば、ジッポくらい。それだけポケットにねじ込み、後はなにも持たず歩きだす。
周囲はどっぷりと日が暮れて、街灯の周りには、光に誘われた蝶々のような女たちが銘々趣向を凝らしたファッションで立ち並んでいる。青魚の鱗みたいに艶々と光を反射する瞼が、ぴたりと鏡太郎の挙動に寄せられた。
「鏡太郎。」
「珍しいのねこんな時間に。」
「ケイ子さんはどうしたの?」
「逃げられたんだわ。」
「可哀想に。」
「うちに来る」
「本気?」
「まさか。」
「じゃあ、うちに。」
「本気?」
「まさか。」
さざめくように女たちの声が重なり合って鏡太郎の鼓膜に流れ込む。
澄んだ小川の中にいるみたいだ。鏡太郎は、この小川が好きだった。時々、自分は女が好きなのではなく、さざめき合っている女の声という概念が好きなのかもしれないと思うくらいに。
女たちの前で立ち止まることはせず、歩いて観音通りを抜けながら、誰へともなく鏡太郎も口を切る。
「あてはあるんだ。飲み屋で働いてる、弓子って女。」
「弓子?」
「だれ?」
「あの地味な子?」
「地味な子って?」
「通りのすぐ外にある飲み屋で働いてる子よ。」
「ああ、あの。」
「確かに地味な子ね。」
「鏡太郎の趣味じゃないわ。」
鏡太郎の趣味、そんなふうに言われると、鏡太郎は自然と首を傾げてしまう。女なんて誰も趣味じゃないような気もすれば、女なら誰でも趣味なような気もするからだ。
確かにケイ子や、ケイ子と仲たがいをしているときに転がり込んでいた女たちと、弓子は違う。さざめく女たちの集合体が言うように、地味な女なのだ。それにあくまでも飲み屋でアルバイトをしているだけであって、客を取っているわけでもない。
鏡太郎は時々その店に飲みに行っては弓子を口説いていたが、そのときの反応もいかにも初心だった。適当に男をあしらう術を知らぬ女のぎこちなさがあった。
そこに付け込もうとしているのだ、鏡太郎は。あの女なら、家に押しかけて一度でも抱いてしまえば自分の宿主になる、と踏んで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます