1人目の女の記憶は、鏡太郎の心の奥底の方にずっと残り続けた。それは、もう27歳になった今とて同じだ。

 心の奥底。真珠貝が貝殻の中でじっと年月をすごし、うつくしく結晶化しているみたいに、茜の姿は鏡太郎の中でうつくしく結晶化していった。

 店先に氷屋を呼びとめ、二人で氷を食べた夏の日。ちょっと、氷屋さん、と差しのべた茜の腕の白さと、氷を舐める赤い舌。汗ばんだ項と、鏡太郎の額の汗を拭ってくれた薄い手のひら。

 売春宿の裏庭で、蜻蛉を取ってもらったのはいつのことだったか。作り物みたいに華奢で繊細な茜の指がくるくると回り、目を回した蜻蛉を捕まえて鏡太郎の手に包ませた。鏡太郎が蜻蛉を怖がると、楽しそうに笑ってそのうつくしい透明の羽を日にかざして見せてくれた。

 金魚売から金魚を買ったのは、鏡太郎がまだ5つか6つだった頃。一年と少しの間、その金魚は真っ赤な尾をひらひらさせて金魚鉢の中を泳いでいた。その尾が動かなくなり、水面に白い腹を浮かべて死んだとき、泣いたのは鏡太郎ではなく茜の方だった。二人は金魚を菓子箱に入れ、裏庭にそっと埋めた。

 茜の記憶。貝殻の中の真珠貝。

 「なにを考えているの?」

 女を抱く前、茜のことをいつも思い出す。そのときにそう問われれば、いつも鏡太郎は素直に答えた。女のこと、と。

 茜のことを女と表現するのは、どうしてもいささかの抵抗はあった。他の上手い単語が思い浮かばないから、仕方なくそう呼んでいるだけだ。例えば実の母や姉を、女と呼ぶには抵抗があるみたいに。

 たった一度の性交の間、茜は笑っていた。  ずっと笑っていた。その笑顔の意味が分からなくて、鏡太郎はずっと茜の中に捕らわれているのかもしれなかった。

 観音通りで生きて行くうちに、鏡太郎は幾人もの女を抱いた。数えきれないくらいの女を。そのどの女も、茜のように笑ってはいなかった。

 精々微笑む女はいた。まだ幼かった鏡太郎に母性を見せつけたがる女だ。けれど茜のように、けらけらと声を立てて笑う女はいなかった。

 声を立てて、なにか面白い遊びでもしているみたいに。

 「なんでかなぁ。」

 ぽつりと呟いても、答える人はいない。傍らには女が眠っているけれど、返事はない。当然のことながら。

 この女は、笑わなかったな、と思う。泣きそうに眉を寄せて抱かれる女だった。

 そんなふうに、ずっと鏡太郎にとっての女の基準は、茜なのだ。

 はじめての女。その呪縛は、思っているよりずっと強い。

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