3.キラーボーイ・ミーツ・フレンド
***
――制服は自分で洗いなさい。ハァ……塾に時間通りに行くことすら出来ないのかしら。呆れた。グズ。誰に似たのかしら。
息子を心配する言葉は一つもなかったし、ヤスハル自身も期待してはいなかった。
そういう人であることなどわかりきっている、一つ屋根の下で暮らす親子なのだから。もっとも母さんはそれを望んでいないのだけれど。
ヤスハルは嘆息を漏らし、両の手でナイフを構えた。
天気予報は雨のち曇り。
雲が最後の最後まで雨水を絞りきりたいかのような、か細い雨が降っている。
鈍色の天井は月の光を拒んでいるが、繁華街は自身が放つ光で墓場のようなビル群をけばけばしく飾り付けている。
とあるマンションの一室にヤスハルとカイコはいた。
部屋の中に家具と呼べるようなものは一つとしてなかった。
無理矢理にでも上げるとすれば、床に敷かれたブルーシートぐらいだろう。
カイコが言うには持ち主が死んで、誰も使っていない部屋であるらしい。
持ち主の死因がカイコであるのか、ヤスハルは尋ねなかった。
「ヤスハルが殺したいのは、三人なワケじゃん。まぁ話を聞く限り二人はただの金魚の糞だけど、一人は危ないやつ……かも。ま、人聞きだけでどんな人間かわかる分析力があったら、俺だって殺し屋やめてなんか別の仕事やってるけどさ」
そう言った後カイコは「やめれないんだけどさ」とヘラヘラ笑った。
「まぁ、口では……っていうか、心の底から殺したいって思っていても、いざっていう時に尻込みしちゃうのが普通の人間だからさ」
カイコは白く眩い上半身を晒していた。
そして細く長い人差し指で自身の胸にくるりと円を描いた。
「とりあえず実際に刺してみようか」
なんてことのないようにカイコは言った。
その姿がヤスハルの中で「とりあえず実際に喋ってみようか」が口癖の中学の英語教師の姿と重なった。
カイコの日常の中に飛び込まなければならない。ヤスハルは思った。
頭ではわかっている。
それでも頭の命令に身体が従ってくれない。
手が震えている。
手が幼子のように駄々をこねている。
いや、手だけではない。
足裏が床に根を張ったように重い。カイコとの間にあるたった数歩の距離を埋めることを拒絶している。
価値のない日常に、身体は留まりたがっている。
「やめる?」
カイコが柔らかな金の髪を弄びながら言った。
「……やめたくないです」
口ではそう言えた。自分の心もそれを望んでいた。
けれど、身体だけが動かなかった。惨めでも変わらないことを望んでいる。
「別にヤスハルが特別にビビりってわけだからじゃない、大体の奴はそうなるよ。普通の人間が人を殺せるのはよっぽどキレてる時か、事故った時だけだよ」
慰めるようにカイコが言った。
「俺が言うのもなんだけど、警察とかに任せちゃえば?口ではワーワー言えても、実際にヤバい状況になったら手を引く奴なんていくらでもいるよ」
「……僕、友だちになろうって言われたんです」
「は?」
心に薪をくべていた。
凍りついた身体を溶かすために心を怒りで燃やす必要があった。
「ヤスハルくん、一緒に遊ぼうよ。それがアイツらに初めて言われた言葉で……僕、嬉しかったんです。馬鹿みたいに信じちゃったんです。本当になんていうか……寂しかったので」
カゲユキ達からしてみれば、冗談なのだろう。
友人にそうするようにカゲユキ達はヤスハルに親しげに接し、そして嬲る。
誰かに見られた時の言い訳というのでもない、そうするのが楽しいのだ。
それでも、ヤスハルはその態度に一瞬でも縋ってしまった。
「自分のプライドがかかっちゃったか」
一歩、ゆっくりとカイコがヤスハルへの距離を詰めた。
「……なんで動かないんでしょうね、身体」
「優しいんじゃないかな。俺だったら血まみれの奴が注射打って~なんて言ってきたら逃げちゃうぜ」
「はじめて言われました、でも僕はずっと心のなかで怒ってて……優しくなんかないと思います」
また一歩、カイコが距離を詰める。
「引けないか」
「引きたくないんです」
「じゃあ、しょうがねぇな」
ヤスハルの前に立ったカイコがその両の手で、ナイフを握るヤスハルの手を覆った。そしてヤスハルの震えごと握り潰すかのように、強く強く握った。二人の手が強く重なる。その手に導かれて、刃先はゆっくりとカイコの胸に向かっていく。
冷たく鋭い刃先が、カイコの白い胸を僅かに掻いた。
金属は陶器のような白くなめらかな肌に赤いヒビを刻むことに躊躇しない。
「……最初の一回だけ、共犯にしてやる」
カイコの強い力に導かれ、刃が皮膚を裂き、肉を押し進んだ。刃が塞ぎきれなかった隙間からねっとりと血が溢れる。刃の感触がヤスハルに伝わる。カイコの体温は冷たい刃のそれによく似ていた。カイコの手に覆われてヤスハルの手も刃になったようだった。
切っ先が弾力のあるものにぶつかる。
振動が伝わる。
命があった。
力を込めて差し込めば奪える命が。
「新鮮だろ?」
そう言うと、カイコは手を離し、ブルーシートに血を吐き捨てた。
血はブルーシートに一瞬だけ美しい花になったように見えたが、瞬く間に赤黒いただの血に戻っている。
「続けるか終わるかはそっちで決めろ」
顔を伏せ、カイコは何度も咳き込んだ。
その度に口から血が溢れ、ブルーシートを染めた。
――ヤスハルくんさ、俺らいい友達になれると思うんだよね。
――母さんの期待を裏切って楽しい?
心に薪をくべる。
ヤスハルの震えは止まっていた。
「やります」
「おお」
刃の鋭さに対して、進みは鈍かった。
思いだけではどうしようもないことなどいくらでもある、だから技術を学ばなければならなかった。
ナイフを握るヤスハルの両手は人が祈る時のそれによく似ていた。
二分ほどかけて、ようやくカイコの心臓は捧げられた。
刃に貫かれたカイコの心臓は――それでも動いていた。
どくん。どくん。どくん。どくん。
カイコの鼓動がナイフを通してヤスハルに伝わった。
小さな悲鳴をあげてナイフの柄から手を離し、そしてヤスハルはその場で吐いた。
口の中いっぱいの酸味は罪悪感の味がした。
「キヒヒ、ブルーシート敷いといて良かっただろ」
カイコが悪戯めいた笑みを浮かべる。
血と吐瀉物の匂いの中で、二人は同じ日常を共有していた。
***
公園灯のか細い明かりの中に二人はいた。
雨は止んでいるが、湿気を吸った夜風は重くて冷たい。
「最悪だったな、お前に殺される奴に同情するよ」
コンビニ袋を片手にカイコが笑う。
「なんか、すいません」
「馬鹿だなヤスハル、すいませんで殺人が済むわけねーだろ」
声色は明るく、声は弾んでいた。
「……で、どうよ?殺れそう?」
ヤスハルは首を振った。
カイコを刺した時のことが夢のように思えた。
「ま、だから慣れようって話だもんな」
カイコはコンビニ袋から二本が一つにつながったアイスを取り出し、片方をヤスハルに渡した。
「あ、ありがとうございます……」
「聞いてくれよヤスハル、俺このアイス好きなんだけどさぁ」
「なんですか?」
「これを割って誰かに渡したの初めてなんだよ」
気恥ずかしそうに頭をかきながらカイコが言った。
「……僕もです、初めて渡されました」
「友だちいないんだよな俺、周りの人間は俺をカイコとしか見てないし、標的は殺し屋と仲良くするほどネジ外れてないしさ」
「カイコさんなら誰とでも仲良くできそうに見えますけどね」
「……ま、商売柄な。明るく朗らかが売りのカイコさんだから」
そう言って、カイコが笑う。
公園灯の寂しい明かりが照らした笑顔は、どことなく頼りなく見えた。
「でもほら、女の子ナンパするならまだしも、街を歩いてる男捕まえて僕たちお友達になりましょうよなんて言う奴いねぇだろ?いたとしても多分……そいつは友だちに飢えてる奴じゃなくて、友だちがもともといるやつのお遊びだよ」
「そうかもしれないですね」
「ヤスハルはどうなん?出会いとかあっただろ?」
「小学校に通う前は家の中でずっとじっとしてましたし、いざ小学生になったら……なんか幽霊が見えるようになって」
「幽霊?」
「アレが本当に幽霊だったのかはわかりませんけど、当時の僕は本当に何か見えてました。けど、周りの子には見えてないのでハブられて、中学校でもそれを尾を引きずって……って感じでしたね」
「小学デビュー失敗だな、不思議少年」
「バカですよね」
「で、今は見えんの?歩く心霊スポットのカイコさんに取り憑く殺された人間は」
ヤスハルは首を振り、薄く笑った。
「もう幽霊なんて見たくないって必死に願い続けたら、何も見えないようになってました」
「良かったじゃん」
「その頃には周りに誰もいなくなってたんで、まだ幽霊が見える能力があった方がマシでしたね」
「残念だなヤスハル、幽霊が見えたらきっと一生分のお化け屋敷代が浮いたのにな」
それからしばらく二人は同じ方向を見つめて、無言でアイスを吸っていた。
「……ヤスハルって今日塾だっけ?」
「サボりました」
「わりーやつだな、先生に言いつけるぞ」
「僕、もっと悪いことするんですよ?」
「キヒヒ!それもそうだな」
今日の訓練は終わり、もう共にいる理由もなかった。
それでも意味もなく二人は公園を歩き回っていた。
「……普通のやつってさ、友だちになりませんかって言われて友だちになるのかな?」
「さぁ……僕、人と仲良くなる方法知らないんですよね」
「俺も漫画でしか知らね」
「フィクションだと同じ時間を共有している内に……みたいなの、そういうので気づいたらなってる感じですよね」
「なんかこう明確に何かしらがあるというのにな、告白みたいな」
「僕と友だちになってくださいみたいな?」
「まぁ、嬉しいわ私も同じ気持ちですわよ、みたいな」
そして二人は声を合わせて笑った。
その時、二人の笑いに割り込むように着信音が鳴った。
カイコはスマートフォンを取り、肩をすくめる。
「わり、人殺してくるわ」
「そうですか、その……頑張ってください」
「殺される奴が泣くぞ」
「変ですよね、ハハ……」
現実感が無かった。
カイコはこれから人を殺しに行く、初めて出会った時に言っていたようにヤクザを殺しに行くのかもしれないし、あるいは罪のない誰かを殺すのかもしれない。
それでも、それはヤスハルにとって他人事で――そんな映像を画面越しに見ているようにしか思えなかった。
けれどもしも目の前でカイコが人を殺したとしても――
「じゃあ、またよろしくお願いします」
「ああ、また……な!」
自分はおそらくその罪に目を瞑るのだろう――確信と共に、去りゆくカイコの背をヤスハルは見つめていた。
***
殺人の訓練とその後の交流は二週間ほど続いた。
祈るようにヤスハルは「また」と言い、カイコも「また」と返した。
けれど殺人者の祈りを聞き届ける神はいなかったのだろう。
カイコの死体は、殺した張本人によってヤスハルの元に届けられた。
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