第2話 廃墟

 パキリ


何か硬いものを踏みつけた音が、靴底から聞こえてきた。


視線を落として確認すると、ガラスの破片だった。侑子の足の下で、真っ二つに割れている。


 右手だけを前に伸ばした不自然な姿勢のまま、侑子は片足を一歩前に踏み出していた。


「野本くん」


 名前を呼んだが、目の前にいたはずの裕貴は、忽然と姿を消している。

彼の手の上に置いたはずの侑子の手は、抵抗を受けることなく、静かに下へ落ちた。


 月明かりが明るい。

辺りは夜だった。


足元に光源があると気づいて下を向くと、炎の灯ったランタンが一つ、置いてあった。


人の気配はない。

誰のものだろう。


侑子はランタンを手に取った。


夜なのだ。

灯りがないと困るのは、目に見えている。


――野本くんが消えたんじゃない。私が消えたんだ


 そう判断するのは早かった。

なぜなら侑子の前から消えたのは、裕貴だけではないのだから。


 出口で誘導していた係員も、ドアの向こうを行き交っていた人々も。

色とりどりのアトラクション、土産物やレストランの建物も、チュロスやポップコーンの甘い香りすら。


全てがそこになかった。


 自分が出てきたのは、元が何だったのか分からない程に朽ち果てた、小さな四角い建造物の残骸だった。

ドア板もない。ぽっかりと空いた縦長の穴が、おそらくそこが出入り口だったのだろうと、辛うじて想像させる。


その空間には雑草が茂っていて、床部分は夜の闇の中に沈んでいる。月明かりが届かないので見えない。低い天井は蔦がへばりつき、黒っぽい汚れが虫なのかシミなのか、判別できなかった。


――廃墟


 後方の不気味な空間から逃れようと、もう一歩前へ進んだ。


侑子は辺りを見回して、その場所が広大な廃墟であると飲み込んだ。


 侑子が出てきた建物の他にも、大小様々な大きさの建造物の残骸が、一つの街を成していた。

どれも壁や天井が崩れかけていて、中の鉄骨がむき出しになっていたり、形が保たれていたとしても、大きなヒビが走っている。


――ああ、ここは


 見渡した侑子は息を呑んだ。


――ここは遊園地だったんだ


 月明かりが、特徴的なシルエットを

浮かび上がらせていた。


 背の高い、錆びついたアトラクションの遺骸。丸く形が残っているそれは、観覧車だった。その足元に見えるのは、コーヒーカップ。


侑子は現実感が薄いまま、移動していた。

コーヒーカップの一つに触れられる位置まで近づくと、円盤状のハンドルに手をかけた。ザラザラとした触感。硬くなった分厚い錆が、手のひらを引っ掻くぞと威嚇しているようだった。


――ここはどこだろう


 侑子は自身を見下ろした。

身につけているワンピースと、白いスニーカーが目に入った。

ついさっきこのワンピースのバックボタンが、裕貴の指で外されたはずだった。腕を上げて確認すると、そのボタンが外れたままであることが分かった。


「もう。ちゃんと閉めてくれないと」


 場違いな文句を呟いてみる。

けれど、状況が変わるわけはなかった。


 唐突な場面転換は初めてではない。


今までに二度、体験したことがある。


一度目は十三歳の終業式の日。


二度目はそれからちょうど一年が経った、夏の日。


そしてこれは。


――三度目?


 侑子は手を目の前にかざして見る。


久しぶりの感覚だが、すぐに思い出すことができた。


自分の身体から、光輝く靄のようなものが、湧き出ていた。


目を瞠って、侑子はそれをしばらくの間、ただぼんやりと見つめていた。


――魔力。私の、透明な魔力だ


 六年ぶりに見た、その不思議な力の気配。

侑子は自分の置かれた状況の一部を、咀嚼し始めた。


バッグに手を突っ込み、震えそうになる手で、銀のブレスレットを取り出す。

左腕に通すと、青い鱗が輝く紐端を引いた。

身体から溢れ出るように見えていた魔力の気配が鎮まり、侑子は「ああ」と思わず声を発した。


 間違いない。


――戻ってきたんだ。私は、戻ってきたんだ……


並行世界パラレルワールドへ。




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